創世記二五・一九~二四
マルコ一〇・四二~四五
教会の私たちが出来る事は。神様に呼びかけて祈りをささげることです。今日の創世記には、アブラハムの息子、イサクが祈りをささげて願いました。妻のリベカと結婚して二十年近くになりますが、子どもを授からなかったので、妻のために主に祈った。そして、その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった(創世記二五・二一)のでした。御心に適う祈りは神様が聞き入れて下さいます。身ごもったのは双子だったようです。胎内で子どもたちが押し合う、押し合いへし合いして、まるでお腹が破裂するのではないかと思う程でした。それで母リベカは主に呼びかけて祈りました。「これでは、私はどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねる、リベカの祈りは願い事ではなく主の御心を尋ね求める祈りでした。神様はリベカにも応えて下さいました。
主は彼女に言われた。 「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」(創世記二五・二三)。
私のお腹の子たちは分かれ争うようになる。兄が弟に仕えるようになる。リベカは驚きました。だって、仲良くして欲しいと願うのが親心です。それに普通は、兄が祝福を得て、弟が兄に仕えるものだからです。でもそうではない。リベカには不思議でしたが、それが神様の御心だと示されたのでした。それでリベカは、その神様の御心を生涯、心に留めました。
先月、カナン合同サマーキャンプを一泊二日の日程で開催しました。七教会からの出席で、当教会からは生徒八名、保護者三名、教師六名の出席でした。主題は「祈り」。準備の段階で心がけたことは、祈りについて学ぶのではなく、自分で祈る体験をする、ということでした。二日目の小学校五年生の分級では生徒たちが自分の祈りの言葉を記して、祈ってくれました。河内長野教会の生徒の祈りの言葉をご紹介したいと思います。
父なる神様、きのう、分級の時に、お祈りのビデオを見ました。そこでイエス様は「その悲しみは喜びに変わる」や「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」など私たちを安心させる言葉をかけて下さいました。これからも私たちに言葉をかけて、私たちを安心させて下さい。この小さなお祈りをイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。御言葉によって絶えず支えられる信仰を言い表している祈り、素晴らしい祈りの言葉ですね。リベカも御言葉によって支えられて生涯を過ごしました。兄弟が喧嘩しても、兄が仕えるようになっても、そこには何か神様のお考えがある、と信じて歩みました。
月が満ちて出産の時が来ました。双子でした。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手エサウのかかと(アケブ)を掴んでいたので、ヤコブと名付けた(創世記二五・二四~二六)。弟ヤコブが兄エサウのかかとを掴みながら、僕の方が強いんだ、祝福を勝ち取るんだ、と生まれたときから主張しているみたいですね。
その後二人の兄弟が成長して大人になった時、ある日、弟ヤコブが、父イサクを騙して、祝福をエサウから奪い取ってしまいます。母リベカがそのように弟ヤコブを導くのですが、リベカはあの御言葉の御心に従ってその様にしました。その結果、エサウは祝福を得られなかった。兄エサウはそれ以来、弟ヤコブを憎みます。それでヤコブは父の家から逃げ出します。二十年間、戻って来られません。父の家に戻ってくるその時にヤコブは思わず祈りました。「主よ、どうか、兄エサウの手から救って下さい。私は兄が恐ろしいのです。兄は責めて来て私をはじめ、母も子どもも殺すかも知れません」(創世記三二・一二)。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄の元に着くまでに七度地に平伏した(創世記三三・三)。地に平伏したというのは、神様に導きを求めての祈る姿ですが、それは同時にご免なさいと謝る姿でもあります。 さて、サマーキャンプで祈りの言葉を書いてもらいましたが、もう一人のお祈りを紹介します。
昨日、始めて出会った友だちと遊べる機会を下さって有り難うございます。嬉しい事、悲しい事を喜んで受け取る、広く、明るい心をお与え下さい。私は時々、けんかしたり、わがままを言って、神様、悲しませてしまいます。私がいけなかった時は、嘘をつかずに、すぐ「ごめんなさい」と言える力を与えて下さい。この小さなお祈りをイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。「ごめんなさい」と言える力、悔い改める力。大人の私たちも心から「ごめんなさい」と謝るのは難しいことです。大人の私たちにとってもいつも祈りの課題です。これを自分の祈りとしている生徒自身の祈りの言葉を聞いて、教えられる思いが致しました。
ヤコブは七度地に平伏して「ご免なさい」と言えるまで二十年かかりました。そして兄エサウはそんなヤコブの姿に気付いたのでしょうか、走ってきてヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて、口づけをし、共に泣いた(三三・四)。仲直りした。赦した。和解した。これは、神様が導いた神様の出来事です。でもそのために二十年かかりました。エサウも、よくぞ赦したと思います。謝るのも赦すのも、大人にとっても簡単なことではありません。なかなか自分では出来ません。神様の導き、お支えが必要です。
仲直りし、赦し、和解した、この神様が導いた神様の出来事は、どこから来るのでしょうか。イエス様は、全ての人の罪を贖う十字架の上からこう祈られました。 「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三・三四)。彼らというのは、主イエスを十字架に付ける全ての人たちです。主イエスの祈りは、他者のための執り成しの祈りです。
主イエスは、人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た(マルコ一〇・四五)と御自分のことを語られました。思えば兄が弟に仕える、当時の常識から言えばなぜ神様がそれをお望みになるのか、分からないことですが、神の御子であられるイエス様が、裁かれて終わっていくべき罪人、人間たち一人ひとりのために、仕えて下さる。分からないどころか、天地をひっくり返すような、あってはならないことです。
でも主イエスは、仕えて下さった。そのことによって、私たち一人ひとりに祝福を備えて下さいました。この聖句カードの絵で言うなら、主イエスはエサウのようになって、主イエスが祝福を差し出して「私のかかとをしっかり掴んで祝福を得るんだよ」と招いて下さっているような光景です。