イザヤ 八・一六~一八
ヘブライ二・五~一三
キリスト信仰とは、見えないことを見る信仰です。ヘブライ書の有名な言葉で言いますと、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ一一・一)。その中心点は、あの十字架にかかられて死んでしまわれたあのイエスのお姿から、神の御子としての見えないお姿を見出し信じることです。
この見えないお姿を見出すことから、今度は私たち、見える自分の姿、見える自分の歩んできた人生から、見えない自分、見えない自分の人生を見出し、それを信じて歩んで行きます。
同じく、ヘブライ書から何度聴いても味わい深い聖句で言いますと、旧約時代のこの人たちは、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです(中略)。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ一一・一三~)。
そこでヘブライ書は、第一章の後半では、イエスの見えないお姿、イエスとは誰なのか、天使ではないと語り、今日の箇所では、御子が世界を治めるお方だと間接的に語ります。神は、私たちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです(ヘブライ二・五~)。世界を支配するのは天使ではなく御子であると。であるのに続けて詩編八編から引用して、ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが」(ヘブライ二・六~)。主イエスは天使よりも低い者となったと語ります。
元々この詩篇が言っているのは、主イエスのことではなく私たち人間のことです。神様が、神様より僅かに劣る者として人間を造り、他の被造物をちゃんと治めるようにと人間に栄光と威光を与えている。そのように神様が御心に留め顧みて下さる私たち人間とは何者なのかと驚きの賛美をささげています。
ヘブライ書はこれを主イエスに当てはめ、あなたが御心に留め顧みて下さるイエスを見出し、このお方は何者かと問いかけ、結論は、神の御子であり、特にヘブライ書は、人々の罪を清める(ヘブライ一・三)大祭司だと答えている訳です。
そして、神の御子であるお方が、天使たちよりも低くなられて、クリスマスに地上に降って来られて、「栄光と栄誉の冠を授け、全てのものを、その足の下に従わせられました」(ヘブライ二・七~)、とまず言うのですが、続けてこう語ります。「全てのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。これが成就すれば問題ないのですが、見える世界の様子はそうなっていない。それが問題です。しかし、私たちはいまだに、全てのものがこの方に従っている様子を見ていません。
ならば見ているものは何かと言いますと、ここでは、ただ「天使たちよりも、僅かの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみの故に(ヘブライ二・九)。見ているものは、天使たちより低い者とされて人となられた主イエスが十字架の死の苦しみを担われたという出来事です。
見ているものは、思えば十字架だけではありません。クリスマスの晩に馬小屋の飼い葉桶に寝ているだけの乳飲み子の姿。ナザレで育った大工の息子の姿。そして最後には十字架にかかって死んでいかれただけのイエスの姿。これが見える姿です。肉眼で見れば十字架上のイエスの姿は、何とも頼りない、およそ神の御子であられるなんて、それどころか、輝かしい風格も好ましい容姿もない、軽蔑され見捨てられ(イザヤ五三・二~)、人間としても最悪の姿です。
そこでヘブライ書は、十字架で死んでしまわれた見えるイエスを、今度は信仰の目を以て見ます。「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって全ての人のために死んで下さったのです(ヘブライ二・九)。イエスのあの十字架上の死は実は全ての人の贖罪の出来事だったのだ、とここに救いの意味を見出しています。そして、信仰の目を以て見るためには、聞かなければなりません。パウロが「十字架の言葉は、私たち救われる者には神の力です」(Ⅰコリン一・一八)と記しましたが、何故「十字架は」と言わずに「十字架の言葉は」なのか。それは、十字架の言葉を聴くことなしには、十字架の出来事の内実=救いの意味は見ることが出来ないからです。肉眼で見える十字架にかかられたイエスが本当は主イエス・キリスト(=救い主)であられることも、肉眼で見えるイエスのかかられた十字架で起こっている出来事も、その本質は隠されたままです。
さて、また「私は神に信頼します」と言い(ヘブライ二・一三前半)を味わいましょう。これはイザヤ書八章からのものです。「信頼します」が、イザヤ書では「望みをかける」になっています。私は主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なお私は、彼に望みをかける(イザヤ八・一七)。ここで興味を引くのは、その直前の文章です。御顔をヤコブの家に隠しておられる、ヤコブの家から見れば、御顔が何か遠くの方に隠れてしまっている。神は我らと共におられないのではないか、と思いたくなるような歴史状況をイザヤは預言しています。
ヘブライ書は、主イエスのその地上のご生涯、特に十字架の出来事から、主イエスが誰であり、何をして下さったか、その十字架の言葉を聴き取り「私は神に信頼します」と言う。神は、御顔を私たちに隠しておられますが、遠く離れて御顔を隠しておられるのではない。
あの乳飲み子の中に、またナザレ人イエスの中に御顔を隠しておられます。あの乳飲み子は歴史の中に降って来られた神の御子です。大工の息子イエスは、私たちと同じ地上の生きる労苦を経験して下さった神の御子です。
あの十字架にかかられたお方の中に、御顔を隠しておられます。十字架にかかって死んだイエスは、私たち以上に私たちの苦しみを担われた神の御子です。イエスの十字架の最期は全ての人のための罪を清める大祭司としての御子の死です。
御子のこの御業によって、多くの子らを栄光へと導き、そして私たちを弟。妹として下さいました。
ここからは私たちの姿です。私たちが弟妹にされたこと(申命記二六・一八では、神の宝の民とされていること)に思いを向けます。主イエス・キリスト、神の御子のお姿を信仰を以て見るというのは、私たち自身のことにも関係が出てきます。あの十字架でイエスという男が死んだ、だけの話ではないからです。主イエスは十字架で全ての人のために死んで下さった(ヘブライ二・九)のであり、それは多くの子らを栄光へと導くため(ヘブライ二・一〇)のものです。全ての人、多くの子ら、みんな私たちのことです。そのお蔭で主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥としない(ヘブライ二・一一)のです。先ほど、神は神と呼ばれることを恥となさいませんとありましたが、もっと親密な表現です。主イエスがここでは兄になり、私たちを弟、妹と呼んで下さる。父なる神様との関係で言えば、神の子らにして戴きました。
思えば被造物でしかも罪の子でしかない私たちが、主イエスの兄弟、創造主なる父なる神様の子らとされるなんて、あり得ないことです。
それでヘブライ書は、その根拠となる聖書をもう二か所引用しています。まず一つ目は「私は、あなたの名を、私の兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い(ヘブライ二・一二)、既に「私の兄弟」と言っています。それから一つ飛ばして三つ目、更にまた「ここに、私と、神が私に与えて下さった子らがいます」と言われます(ヘブライ二・一三後半)。ここでは「子ら」となっています。
その預言を受け、主イエスは私たちを喜んで弟、妹と呼んで下さる。そう呼ぶことを恥としない。それもただ呼ぶだけではない。兄となって下さる。そのために主イエスは十字架に命をかけて下さった。罪を贖い、それで私たち罪人を主イエスの弟、妹にして下さる。
これを自覚し合っているのが私たちです。そして、そういう私たちの関係は兄弟愛の関係です。今、特に心に留めている用語で言いますと、相互牧会をし合う仲です。罪贖われた者同士として互いを見出し、罪赦されている私たちであることを確信して、その信仰を以て支え合っていく仲です。なぜお互いに牧会し合うのか。それは私たちが兄弟だからです。そのやり方としては語り合う、聴き合うことがあるし、お世話することもあるでしょう。そうやって信仰を共有しながら支え合う。教会の共同体は、一つの言い方をすれば、私たちが主イエスの弟、妹同士である牧会共同体です。教会は礼拝をささげ、牧会に励みます。その姿が伝道になります。みんなで心から礼拝をささげ、みんなで互いを見出し、伝道の御業に仕えます。