日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年8月4日 説教:森田恭一郎牧師

「主イエスの後ろに」

申命記六・一〇~一五
マルコ八・三四~三八

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ八・三四)、主イエスのお言葉です。A・D・ヘール宣教師から洗礼を受けた西端利一牧師はこう記しています(『A・D・ヘールに学ぶ』「はじめに」の三頁目)。「日本に渡来した宣教師は多かったが一門一族を挙げて、その生涯を捧げ尽くし、文字通り日本の土となった六人、A・D・ヘール夫妻、弟J・B・ヘール夫妻、息子J・E・ヘール夫妻を思うとき、世界宣教歴史にも類例のないことであろう」。

この文章を読みました時、自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従ったのが、まさにヘール一族だったのだと、先の主イエスのお言葉を思い起こさずにはいられませんでした。     主イエスに従うとはどういうことか、私たちにとりまして一生涯をかけて考えるべき、余りに大きな課題ですが改めて思いを馳せたいと思います。

 

主イエスは「私の後ろに従いたい者は」とお語りになりました。従うのは主イエスの後ろでいいのですね。主イエスの前に出る必要はありません。その点、主イエスがご自身の死と復活を予告なさった時、主イエスの前に飛び出してしまったのがペトロです。ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた(マルコ八・三二)。いさめるというのは、叱るという言葉です。弟子のペトロが神の御子、主イエスを叱ってしまう。前に出てしまう。自分が思い描いている救い主像とは違う、期待外れだ、と思い込んで主の前に出てしまう。その時の人間の姿は、神のことを思わず、人間のことを思っている(マルコ八・三三)姿です。神に栄光を帰するよりも人間たちに栄光を帰してしまう姿です。自分たちが神様になってしまっている姿です。救い主を必要とせず自分たちが救い主になってしまっている姿です。

そのようなペトロを主イエスは「サタン、引き下がれ」とお𠮟りになりました。主の前にしゃしゃり出たペトロはサタンのようになってしまっています。主イエスをいさめたペトロを、主イエスがお叱りになりました。ペトロがサタン化しているからです。そして、日本語訳では省略されていますが「サタン、私の後ろに引き下がれ」と言われました。十字架の主イエスの後ろです。弟子たるもの、いや誰であれ私たち信仰者は、主イエスの後について行くべき者だからです。

 

本日読みました旧約聖書、申命記六章。ここに律法の中心的事柄を現すみ言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記六・四)。神を神として神に礼拝をささげ神を愛するということです。これを受けて、神を神とするために心傾けるべきことを語っています。主を決して忘れないようにしなさい(申命記六・一二)。この主なる神様がどのような神様であるのかと言いますと、導き入れ、導き出された主なる神様です。あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないブドウ畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないようにしなさい(申命記六・一〇~一二)。エジプトの奴隷の家から導き出し、約束の地に導き入れた主なる神。導かれる。それは、導かれるままに主の後について行くということですね。

 

思えば信仰とは、導かれてその恵みの中に入れられることです。従っていくぞという決意表明で洗礼を受けるということもあるでしょうけれど、それだって、恵みが先行していて、その中に入れられての決意表明でしょう。

ヘール宣教師一族も、ご本人たちにすれば、自分の決意で従っていったというより、その都度、主に導かれて、道が示されて、その生涯を歩まれたということです。大阪に来られての三十五周年記念祝賀会で、A・D・ヘール宣教師がこれまでの歩みを振り返ってこう言われました。 「私共が御国に於ける三十五年は、ただ年を重ねたと申すに過ぎないものでありますが、忘れてならぬのは此長年の間、私共を護り給いました神様の恩恵であります」(『A・D・ヘールに学ぶ』二〇一頁)。私たちにすれば、ヘール宣教師は自分を捨てて主に従ったのだ、すごい決意だ、と思いますが、ご本人にすれば恩恵の中で護られた、導かれただけだということです。結果としてそれが自分の十字架を背負って歩んで来た営みだった、ということです。A・D・ヘール宣教師も「忘れてならぬのは神様の恩恵であります」と忘れてはならないことを大事なこととして語っておられます。この主旨はあの申命記の言葉と同じです。

そして周囲の人たちは、その生涯を 「開拓につぐ開拓の精神、開拓こそヘール精神の神髄」(『A・D・ヘールに学ぶ』一二頁)と語りますが、きっとご本人たちにすれば、そのように恩恵を戴いて導かれただけなのだ、と思われるのでしょう。このようにして、用いられ主イエスの後に従った、結果として開拓の営みだったのではないか……。                         私たちも同じです。何か大きな決意を以て従うことが、自分を捨て自分の十字架を背負っていくことだと思い、それは自分には出来ない、開拓精神もヘール宣教師だから出来た、と思いがちです。が、もしかすると、そう思うのは、あのペトロのように主の前に進み出てしまうサタン化した私たちの姿なのかもしれません。           私たちも、主イエスの後ろに従うのみ。そして振り返ってみると、導かれて歩んで来た人生が、気付いてみれば、これが私の背負う十字架の営みだったのだ、ささやかながらも、自分も開拓してあの時、福音をあの友人と分かち合ったな、と感謝するようになるに違いありません。開拓も主の御業であり、そのように用いられるなら幸いです。

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