日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年8月18日 説教:森田恭一郎牧師

「主イエスのもとに」

詩編一三三・一
マタイ一一・二五~三〇

見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び(詩編一三三・一)。先日のカナン合同サマーキャンプで味わったのですが、座っているというのは素晴らしい事です。地震が起きたら座ってなんかいられません。戦争が起こってミサイルが飛んでくることになったら座ってなんかいられない訳です。思えば、今、皆さんがこのように共に座っている。本当に何という恵み、何という喜び、と感激できることなんですね。                             疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい(マタイ一一・二八)。 新約聖書はギリシャ語で書かれています。直訳すると「さぁ、私のもとへ。全ての人たちよ、疲れた者たち、重荷を負う者たちよ」となります。「さぁ、私のもとに」、と主イエスはきっと両手を広げて、私たちをお招きです。そして皆さんは今日、教会に、主イエスのもとに来て下さいました。

今、アメリカ合衆国の大統領選挙に向けてキャンペーン中です。民主党のキャッチフレーズの一つを知りました。We are not going back.私たちは後戻りなんかしない、というキャッチフレーズです。選挙戦での文脈は、これまでアメリカ社会が勝ち取って来た市民の諸権利をトランプ陣営は壊してきた。私たちは、そんな所へ後戻りしない。私たちは、将来のために闘っている。We are not going back.                                         今ここで選挙の話をしようとは思いません。聖書の話です。皆さんのための話です。主イエスは「さぁ、私のもとへ」と呼びかけておられます。皆さんは今、教会に来て下さいました。だから、もう教会に来ない時点に後戻りしないで欲しい。いつも主イエスのもとに。だって主イエスが「さぁ、私のもとへ」と呼びかけ、お招きになっておられるのですから。

さぁ、私のもとへ。休ませてあげよう。休む。今は夏休み。皆さん、休めていますか。朝、寝坊が出来る人がいるかも。いや自分は塾に毎日通って忙しいんだという人がいるかもしれない。あるいはスマフォでゲームに夢中かもしれない。休むどころか、かえって目が疲れちゃいます。

聖書を読むと、疲れた者、重荷を負う者に向かって休ませてあげよう、ですから、疲れをとるような、重荷を下ろすような休みを語っているのかと思いますね。それで、一一章二八節以下を今、黙読で読んでみて下さい。どうでしょう、今背負っている重荷を肩から下ろしていいんだよ、とは聖書に書いていない。それどころか、私の軛を負いなさいとか、私の荷は軽い(マタイ一一・二九、三〇)とか書いてあって「さぁ、私のもとへ」と主イエスが言って下さっても、何だか期待外れですよね。

でも考えてみると、例えばハイキングや山登りするときに、荷物はない方が楽でいい、はずです。でも水筒もお弁当もおやつも何も持たないままで出かける気持ちになりますか。泊りがけの山登りなら、着替えもテントもその他色々持って行きます。重そうです。それで、重いからと言って持っていきませんか。持っていきます。それらがあるから山登りも楽しみになります。

人生も同じです。重荷のない疲れも全くない人生、楽かもしれませんが、実際にはそんな人生ありません。むしろ、疲れも重荷もあってこそ、自分の人生をこう生きていると実感を以て言えるし、これが私の人生だったと言えるようになります。

 

そういう私たちに主イエスは、私の軛を負いなさい、私の荷は軽い、と仰います。軛は私たちには馴染みがありませんが、牛や馬、二頭の家畜に荷物を引かせて進む時になどに用います。二頭がバラバラに別の方向に進んでしまったら困りますから、二頭の首をつなぐ道具です。方向が定まりますし、軛を負って二頭で進めば、力は二倍、重荷が半分に感じられるようになります。

友人がいると喜びは二倍に、悲しみは半分になる、ってよく聞きますよね。

それと同じで、主イエスの軛を負うとは、人生の重荷を自分一人でではなく主イエスと二人で負うようにしてもらって荷が半分の重さになるということです。いや、主イエスの軛は、喜びは倍以上、悲しみや重荷は半分以下になるのでしょう。

皆さんは、独りぼっちで疲れ、独りぼっちで重荷を負いたいですか。人生だから降ろせないけれども、主イエスが皆さんと負って下さる軛を用意してくれていて「さぁ、私のもとに」と呼び掛けておられます。一緒に軛をつなげて、一緒に負う

なら、人生に安らぎを得て元気づけられます。                          主イエスはご自身を、私は柔和で謙遜な者だから(マタイ一一・二九)と言われました。主イエスはある時、子ロバに乗ってエルサレムに入られました(マタイ二一・五)。戦場で使う軍馬ではなくロバ。ロバは早く走れませんが、得意なことがあります。背中に重荷を負うことです。重荷を負う強い骨格になっているようです。そのロバに乗って、自分は皆さんの重荷を負いますよ、と救い主の姿を表しました。この主イエスのもとへ、と呼びかけられています。それが、教会の礼拝です。

 

 

(以下補足)相手の重荷を共に負う姿を柔和と言い、ここでは謙遜と言っています。謙遜な者、これも直訳すると「心・魂の謙遜な者」さらに「心・魂に謙遜な者」と訳せます。 単なる道徳的な謙遜というより、人生の姿勢を表しているようです。もう少し言い換えると、自分の心・魂・良心に対して正直であること、良心の自由を以て生きることを語っているとも言えそうです。ある新聞にこう言葉がありました。自由は個人の内面的性格ではなく、他の人々共に世界に或ることの特質である(朝日八月一一日朝刊)。自分がこの社会で他の人々と共に本当にしたいこと、自分の人生の意味をそこに見出せる良心の自由。主イエスがその私たちと軛を負って下さいます。これがあるから自分の人生を歩めます。              主イエスは御心にかなうこと(マタイ一一・二六)をご自身の良心としました。 相手の重荷を共に負うことに対してご自分の良心を見出しておられた。そしてロバに乗ってエルサレムに入りました。十字架につけられ、私たちの重荷、罪を負って下さいました。

その主イエスが「さぁ、私のもとに」と呼び掛けておいでです。私たちは、We are not going back. 主イエスに共に軛を負ってもらわない、そういう時点に戻る必要はありません。私たちも良心の自由に生きる。その人生を歩みます。その起点が「主イエスのもと」にという教会の礼拝の場です。

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