サムエル記上一六・五~七
ガラテヤ二・六~一四
今日の説教題を「主は御心をなしたもう」としました。神様の御心の内容は福音を任せるという御心です。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、私には割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました(ガラテヤ二・七)。任すというのは、信じるという言葉でもあります。ペトロやパウロたちを神様が信じて、そして福音を任せる。その御心を歴史の中になしたもうて実現していくために、その時々にお用いになる人々に神様がエネルギッシュに働きかけられます。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のために私にも働きかけられたのです(ガラテヤ二・八)。今日は神様のこの働きかけと、働きかけに従って生きることを心に留めます。
ところで、今日のガラテヤ書の前半(二・六~一〇節)と後半(二・一一~一四)は別の場面の話です。
まず前半の話をしますと前半は、ペトロなど主だった人たちのいるエルサレム教会とパウロやバルナバのいるアンティオケア教会の役割分担を決めた会議の場面です。ペトロたちには割礼を受けているユダヤ人への福音伝道を任すこととし、パウロたちにはユダヤ教徒ではない異邦人への伝道を任すことにするという役割分担を決めた場面です。ユダヤ教にはユダヤ教徒になる儀式があってそれを割礼と言います。ユダヤ人たちからすれば、ユダヤ教徒にならなければ救われないという意識がありました。それでユダヤ教の地盤で始まったキリスト教の福音も、ユダヤ教徒に有効な福音だと思われた。ペトロをはじめとするエルサレム教会の人たちも、ユダヤ教徒に有効な福音だと思っていた。ところがパウロは、異邦人への福音を任すという働きかけを神様から受けた。そこで、パウロやバルナバのアンティオケア教会の人たちは、キリストの福音はユダヤ教徒でない異邦人にも有効だと考えました。
そこからどちらが正しいのか議論が生じました。それは福音とは何か、福音の真理に関する、結構本質的な議論、ひいてはキリスト教会の分裂を招く深刻な議論となった訳です。それでペトロたちとパウロたちが集まって使徒たちの会議をした。その結果、両者が握手をし合って、それで、会議の結論として私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです (ガラテヤ二・九)。この会議での象徴的な出来事が、しかし、私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした(ガラテヤ二・三)という出来事です。ユダヤ教徒にならなくてもキリストの福音は有効だということになった訳です。
この結論に至った大事な点は、どちらの人間の考えが正しいかという視点ではなく、神様の御心は何かという視点があったことです。神様が御心をなしたもうご計画を共有、分かち合いました。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、私には割礼を受けていない人々(=異邦人)に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のために私にも働きかけられたのです (ガラテヤ二・七~八)。キリストの神様が、御心に従って両方を必要となさって、ペトロたちにもパウロたちにも働きかけられたのだ、これが神様の御業でありご計画なのだ、これを了解し合った訳です。それでみんな恵み認め(ガラテヤ二・九)握手し合い、合意が出来た。以上が前半の場面です。
神様が信じて任せ、ご計画に向けて働きかける。私たちはどう働きかけに向けて選ばれるのでしょうか。選びというとき、選ばれる人間の側に何か立派さがあって選ばれるのではないことを知っています。サムエル記上のダビデの選びの箇所で、神様は 「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上一六・七)と仰いました。ダビデの兄たちの能力ややる気持ちなどの外見ではお選びになりません。それならダビデの心の立派さに基づいてお選びになるということでしょうか。そういうことでもありません。神様はここで、ダビデの心の中に、神様のご計画を置かれた。ご自身のご計画をご覧になるのです。ご計画に用いようとする神様の御心があって、ダビデに働きかけます。
ガラテヤ書に戻りますが、この会議で、神様の働きかけに一同思いを向けた訳です。この会議のお蔭でキリスト教はユダヤ人だけの民族宗教から全ての人への世界宗教になったと言えます。神様の全人類をお救いになるご計画だった訳です。
後半は、ケファとパウロの個人的なやり取りの場面です。ケファというのはペトロと同じ人です。ケファもペトロも岩という意味で、主イエスがシモンに名付けた名前です。ケファはアラム語、ペトロはギリシャ語。ケファという呼び方は当初エルサレム教会やユダヤ人の間で親しまれたようです。その後使徒としてペトロが広がりました。
このペトロは、割礼を受けたユダヤ教徒への福音を任される、その働きかけを受けていたキリスト教の使徒です。ですから、民族としてはユダヤ人であってもキリスト教徒です。キリスト教徒は福音の真理に従って歩みます。ユダヤ教徒は当時律法に従って、汚れた異邦人と一緒に食事はしなかったようです。でもペトロはキリスト教徒になり、異邦人とも食事を共にすることが出来るようになった。律法に縛られない自由を得た。異邦人だってキリストに愛されている人たちですから。そのようにペトロは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活している(ガラテヤ二・一四)ことが出来るようになりました。
ところがある時、エルサレム教会のヤコブたちのもとから人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻込みをして、異邦人と一緒に食事をする場から身を引こうとしたようです。そもそもキリストの福音の恵の中へと働きかけを受けて使徒となり、今はユダヤ教徒への福音を任されたキリスト教徒なのに、ユダヤ教徒のようにふるまってしまいました。それを見たパウロは、福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないと考えました。ユダヤ教徒にあと戻りするようなその姿をパウロは皮肉交じりにペトロと呼ばすにケファと呼んだのでしょう。
私たちも日本人も同じ課題をいつも抱えています。日本社会また日本の宗教文化の中に生活し、尚かつ、キリストの福音の真理に生きる。日本人でありつつキリスト教徒である、そのことの喜びと労苦があります。キリストの御前にあって世間体から自由になった。でも……。先週はこの地域のお祭りでした。皆さんは教会の礼拝に出席なさいました。でも世間の人から言われたかもしれない。町の大事な行事なのに協力しないのですか? そこで色々考えねばなりません。譲れる所と譲れない所、譲らざるを得なくなる所……。お祭りでは神社にお参りに行くのでしょうか。お参りに行ったらキリスト教信仰が崩れることになるのでしょうか。それとも一緒にいる人々への配慮として付き合って一緒に行くということなのでしょうか。似たような問題は、日曜日の地域の一斉清掃、日曜出勤、日曜の部活や塾、元旦に友人から初詣に誘われることなど、課題は出てくる。その他、キリスト者の倫理としてどう生きるか色々あります。
その際にただ、今日のパウロの言葉で言うと福音の真理にのっとってまっすぐ歩いてということが判断の基準になりましょう。また自分は神様から働きかけられて今の自分があるのだということ、それを思い起こしていなければなりません。その上で、単に流されるのではなくその都度、神様と相談しながら、あなたの私に働きかけてのご計画は何ですかと祈り、尋ね求め、問いながら決めていくしかありません。
今日は伝道献身者奨励、神学校を覚えての礼拝をささげています。召命を考える。それは、自分の能力や本人のやる気の問題ではありません。神様のご計画があり、神様が働きかけておられる所に召命が成り立ちます。
そして召命は、いわゆる伝道者に召されることだけではありません。私たちは皆、キリスト教徒に、具体的には教会に召されて今日があります。さらには皆さんのお仕事、毎日の家庭生活も含めた日常生活を神様からのお召しとして受け止めるなら、それも立派な召命であり、召命に基づく生き方、生活になります。