詩編一三九・二三~二四
ガラテヤ五・一六~二六
今日は「霊の導き」について思いを深めます。
パウロは今日の箇所でこう語ります。霊の導きに従って歩みなさい(ガラテヤ五・一六)。霊に導かれているなら、あなた方は律法の下にはいません(ガラテヤ五・一八)。私たちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう(ガラテヤ五・二五)。
私たち信仰者は、導きを信じています。人生を振り返って「これまで導かれてきました」と語り、祈りの中で「どうぞ導いて下さい」と祈ります。このように導きを思い祈ることが出来る。これは私たち信仰者に与えられている宝、恵み、幸いだと言えます。
信仰者ではない方からすると「導きなんて、何故そう簡単に言えるのか。自分で努力していくしかないではないか。祈った所で何になるのだ、あの世なんてあるものか」と思えることでしょう…。でも、例えば、人間の努力ではどうしようもない壁にぶつかった時に「祈ろう」と思える。あるいは治療法無くなった時など、その患者に寄り添いながら「祈りましょう」と言える。ある無信心者と自称する社会学者の方が言われたのですが、それは信仰者の必殺技だ、羨ましい、でも自分には出来ないな、社会学者として禁欲している(上野千鶴子氏「死にゆくひとはさびしいか」)と。
私たちは、信仰者ですから、導きを信じて遠慮無く祈ることが出来る。その幸いを大事にしたい。
さて、「霊に従って歩む、霊に従って生きる、霊に従って前進する」。実は直訳は「霊に歩む」です。これを「従う」という言葉を補って意訳しますと、何か私たち人間の側の従う決意や行為が求められているような感じになります。それは私には無理だな、と信仰者でも思ってしまいかねません。パウロもそのことは認めているようです。肉の望む所は霊に反し、霊の望む所は肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなた方は自分のしたいと思うことが出来ないのです(ガラテヤ五・一七)。ローマ書でも、私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。善を為そうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります。私は何と惨めな人間なのでしょう(ローマ七・一九~)。それで私たちも言ってしまいます。そうなんです、従えないんです、自分は意志軟弱で、私の信仰も弱いんです…と。そして信仰者としての自分を嘆いたり諦めたり……。パウロはここで、キリストを信じる前の自分を、何と惨めな人間なのでしょうと嘆いているのではありません。信仰者であるのに、惨めな人間、と嘆いている訳です。パウロも私たちと同じです。
ただパウロは、惨めな人間なのでしょうと嘆きながら次を見ています。誰が、この死の体から私を救ってくれるだろうか。私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべかな(ローマ七・二四~口語訳)。そう語って、律法に従い得ない自分を贖い取って下さったキリストに心を高く上げ、神様に感謝している訳です。
「導く」のも思えば、誰が導くのでしょうか。自分自身でしょうか。聖霊なる神様です。そこでガラテヤ書五章一八節、しかし霊に導かれているなら、あなた方は律法の下にはいません。霊が導きます。そして恵の下にいる訳です。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。私たちが愛に生きるのは、私たちが愛すること以前に、聖霊に導かれて支えられて、愛します。
喜びにしても、平和にしても、寛容にしても、以下続く、全て善なることは、聖霊の導きのお蔭です。私たちが善と悪の中間にいてどちらかを選ぶのではなく、聖霊が善へ導く。その聖霊の導きなしには、私たちは悪しか選ばない。悪徳表が載っています。その中に、そねみや利己心があります。嫉み合う(ガラテヤ五・二六)という言葉も出てきます。教会の現状の一つであったようです。相手を低くして、悪口を言い、勝手な思い込みで噂話をし、優越感に浸る。こんな噂をたてることが、どんなに人の心を傷つけることか。また教会の品位を下げることか、誰もがしてしまいがちなことだけに、本当に心したいことです。そうやって優越感に浸る自分こそ、本当に惨めです。
だから、どうしなければならないのですか? 頑張って信仰を強くするのですか? 違います。導いて下さるのは聖霊です。だから、祈り求めるしかない。この惨めなこの私を導いて下さい、と。 旧約の詩人も祈りました。神よ、私を究め、私の心を知って下さい。私を試し、悩みを知って下さい。ご覧下さい。私の内に迷いの道があるかどうかを。どうか、私をとこしえの道に導いて下さい(詩編一三九・二三~)。もしかすると、利己心を以て優越感に浸っているその時には、惨めな自分であることが見えなくなっているのかもしれない。私を試し、本当は悩むべき惨めなこの私を導いて下さい。詩人は導きを求めて祈りました。
パウロは宣言します。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです(ガラテヤ五・二四)。私たちは贖われました。贖われてキリストのものになりました。旧約来、神様も約束しています。私は主、あなたの神、私はあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる(イザヤ四八・一七)。聖霊が導く根拠があります。私たち惨めな人間は十字架につけられた者です。だから十字架を根拠に祈ることが出来る。惨めでしかないのに厚かましくも「導いて下さい」と祈ることが出来る。その根拠が十字架にあります。
主イエスは、人々に盲人をそばに連れてくる(=導いてくる)ように命じられ(ルカ一八・四〇)ました。この人々は当初、助けを求める盲人を黙らせようとしました。主イエスは盲人だけでなく、この人々をも導こうとされたのではないでしょうか。そして主イエスの下に盲人を導くのが、教会の務めですが、私たち一人ひとりも、自分が主イエスの下へと導かれるように祈らねばなりません。
また主イエスは、ご自分を良い羊飼いに譬えてこう言われました。「私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハネ一〇・一六)。主イエスの十字架に向けてのご決意です。そして、その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。教会に対する主イエスの宣言です。この宣言を受けて、聖霊が私たちを、教会を、一つの群れへと導いて下さいます。