日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2024年11月3日 説教:森田恭一郎牧師

「主の命、土の器に溢れ出る」

イザヤ 四五・九
Ⅱコリント四・七~一二

先週は、人の子(=キリスト)が仕えられるためではなく仕えるために来た(マルコ一〇・四五)お姿から、キリスト教保育観、私たちの人生観、そしてヘール兄弟達の謂わば宣教師観が生まれ、彼らの仕える営みから私たちの教会がこの地に植えられたことに思いを馳せました。今日は『A・D・ヘールに学ぶ』の大阪東教会の設立(五九頁~)をきっかけに考えたいと思います。そこに大阪東教会五十年史から引用された記事があります。    要約すると、A・D・ヘールは当初、八幡筋に講義所を開設し、日曜朝は聖書研究会、夜は説教会を開き、更に水曜日には婦人会を開いて、ヘール婦人が編物を教えたりしたのですが、ほど近い所に組合教会が島之内教会を新築したので、肥後橋付近に移転。そうしたら大阪教会が設立されたので、内本町に移転して集会を継続した。それが後の東教会の生い立ちである、と。この記事から中山昇はこう記します。この文面によると大阪東教会は、小さきものの悲しさを味わったようだ。組合教会の力にはじき出され、やっと見つけた講義所を次々に移り変わった小さな群れは、時としてつぶやく声をもらしたのではなかろうか。しかしこの想像は不思議にしこりを残さない。先生の性格と信条が、少しもこだわらぬ開拓者のそれであったからだ。「教派の伝統を重んじながら一致を追求する」、これが、個々の教会の受け継ぐべき信仰の遺産である。宮川経輝(みやがわつねてる)牧師が「ヘール博士に接する時には他派の宣教師という感じが少しもしない」と語られたそうだが、それはプレスビテリアン(長老派)の宣教師らしくないというのでは決してない。それを越える何かがあったというのである。

それを越える何か、とは何だろう。先ほどの小さな群れという言葉から主イエスのお言葉を思い起こします。 「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる」(ルカ一二・三二)。

それを越える何か。この聖句に支えられての何かです。希望、寛容、そして本日の説教の言葉で言いますと「器」なのではないかと思います。あの人は器が大きい人だ、という言い方がありますが、この聖句に支えられた器の大きさが、ヘール宣教師にはあったのでしょう。もちろん人間ですから壊れやすく欠けもある「土」の器です。でも「小さな群れよ」と語りかける主イエスのお言葉に支えられての土の「器」です。自分自身の教派的伝統はありながら、他教派と共に伝道協力していく器量、器の大きさがあったのではないでしょうか。

 

さて、今週木曜日一〇月三一日は宗教改革記念日です。宗教改革において言われることの一つに宗教改革者ルターの「神の義の再発見」があります。それまでは、神の義は義でないものを徹底的に裁く義でありました。が、ルターは罪人が赦されて神様に受け入れられる。そのために、キリストの義が転嫁されて我々の義となる。いわゆる責任転嫁の反対でキリストの義が私たちに転嫁され、プレゼントされて私たちのものとなる。これを神学用語で「神の受動的義」と言います。ルターはこれを「義人にして同時に罪人」と表現しました。

罪人でしかない「土」の器である私たちであるのに受動的に受け取るだけで良い、キリストの義という宝を土の器に納めている(Ⅱコリント四・七)。

「土」の器、実に脆い壊れやすいものです。神様との関係で言うと、神様に対する畏れ、礼拝をささげる姿勢がないとひびが入る。ひびどころではない、バラバラに砕ける。災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに、自分の造り主と争う者は(イザヤ四五・九)。かけらでしかないのに、器にしてもらって、その器が信仰と言っても良い、キリストの義を納めさせて戴きます。

 

『A・D・ヘールに学ぶ』から味わいたい言葉が今日はもう一つあります。ウィルミナ女学校開設の記事(八五頁~)、卒業生たちのことを語る中で、A・D・ヘールの言葉があります。「しかし、この地において(異教地日本ということでしょう)クリスチャン婦人として受ける誘惑は大きいので、(卒業生が教会から離れ 信仰を捨てるケースなどがあったのかも知れない) 彼女たちが、良きキリストの働き手となるために多くのクリスチャンの心を込めた祈りを必要としている。こう引用して中山昇はこう締めくくります。祈りの子は神様の懐の中で守り通される。これは本人が祈る祈りの子という意味合いもあるでしょうけれど、祈ってもらう祈りの子という意味合いもあるでしょう。むしろここでは祈ってもらう方に重点があるように思います。

そして、神様の懐の中で…、これは、神様の器の中でと同じですね。神様の器ですから、壊れやすい土の器ではありません。この大きな器の中にしっかりと私たちを包み込んで下さる。変な言い方ですが、もし、神様の器が小さかったら、不義なる私たちはそのまま裁かれるしかなかったでしょう。                     でも実際は、神様の器、その器量は大きい。キリストが十字架において私たちの裁かれるべき罪を負い死んで下さった。これによって、私たちは神様の懐の中に包み込まれ、神様の器が愛という大きな器であることが、信仰を通して分かりました。そして、主イエスの命が私たちの内に現れて私たちは生かされる者となりました。私たちはキリストの命が納められる土の器とされています。それにまた、キリストは器に納めるだけでなく、私の杯を溢れさせて下さる(詩編二三・五)ことまで約束下さっておられます。

カテゴリー

過去の説教