申命記 五・一九
エフェソ四・二八
今日は十戒の第八番目の戒め、盗んではならないの御言葉を味わいます。これまで、例えば、殺してはならないの戒めが生かせということであり、姦淫してはならないの戒めが人格共同体の形成であったように、この戒めも、ただ盗まなければいいということではなくて、与えなさいという意味であることは確認しておかねばなりません。新約聖書にも、盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい(エフェソ四・二八)とある通りです。これまで盗みを働いていた者に対して、分け与えるようにしなさいと勧めています。盗むのをやめなさいというだけでなく、分け与えるようにしなさいと勧めています。
これはザアカイも同じです。ザアカイはイエス・キリストとの出会いを通して劇的に変わりました。それまで奪い取る人生を歩んできましたが、これから与える人生を歩んで行きます、こう決意表明をしたのです。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。それまで騙し取っていたと自分で言っています。このザアカイが変わる。この生き方の方向転換は、キリストとの出会いを通してキリストへの方向転換がまずあって、そこから生じた変化です。このザアカイの言葉を聞きこの姿を見て主イエスも「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言って祝福して下さいました。私たちはと言えば、私たちはアブラハムの子ではありません。異邦人の子です。でもこの私たちもキリストの御業によって異邦人でありつつ、神の子とされた訳です。
盗んではならない、何を盗むか、物や経済的利益や財産、資産について考えることが多いと思います。このことについて色々言うべきことはあるのですが、今日はそれらのことを省きまして、そこから学ぶべき一つの事柄に集中したいと思います。それは、この戒めが、人を盗んではならないことを意味しているということです。殺さないのも姦淫しないのも人に関すること、偽証しないのも人に関することです。盗まない所だけ物になるのは不自然です。申命記にも、同胞であるイスラエルの人々の一人を誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人に売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない(二四・七)とあります。悪を取り除くためにこの人を殺すというのは随分極端な話だとは思いますが、言おうとしている事柄には耳を傾けたい。つまり、人を盗んで奴隷のように扱う。そして誘拐について言及しています。誘拐、拉致、人質、人身売買、ハイジャック等々、人を盗んではならない。これは人の自由を束縛してはならないことを意味します。身体拘束や監禁もそうです。最近の裁判で言いますと、親による虐待、父親の娘への性的暴力、広く一般にいじめも含まれます。裁判でも弱い者への「支配欲」という言葉が用いられていました。人間の罪の故の犯罪です。この戒めが、広い概念であり案外現代的な課題を指摘していることに気付きます。テロも同じでしょう。ISでは幼い子どもたちが売り飛ばされたり、無理やり人を殺す兵隊にさせられていく。そういう人々を奴隷のように扱う支配領域が広がっていく。考えてみれば、出エジプトは奴隷であったイスラエルの民が解放される出来事でした。神様は、人を盗むなということを、この出エジプトの出来事に於いても明らかにしている訳です。
そして、殺すなの反対が生かせであったように、盗むなの積極的意義は何か? 物を盗むことの反対は物を与えることです。それなら人を盗むなの反対は人を与えることでしょうか。単純に言葉を当てはめれば済む話ではありません。皆さんは、人を盗まないことの反対は何だろうとお考えになりますか…。
もっとも、主イエスは文字通りご自身を捧げて下さった。「キリストは肉に於いて生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました」(へブライ五・七)。ここでは祈りと願いをささげられたとあるのですが、主イエスはご自身を十字架上にささげて下さったことは言うまでもないことです。
それなら私たちは自分をどうささげるのだろうか? これが今日の主題です。まさか自分を与えることとは言いにくい。それを出来ない弱さを抱えています。
ならば、共に生きることだ、と言ってみたらどうでしょうか。共に生きる生活の新しい形を原始キリスト教会は生み出しました。当時、ローマ社会には奴隷が多数おりました。初代教会は奴隷制度への批判を表明したということは必ずしもなかったと言えるでしょう。それが出来るだけの社会的な力もありませんでした。でも、教会では、奴隷であった人の人格を大切にしました。それは言えるだろうと思います。
また初代キリスト教徒たちが作り上げようとした生活を見ますと、原始共産制の生き方であったようだということが見えてきます。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒言行録四・三二)。また日々の分配や食事の世話の仕事を任された執事が、祈りと御言葉の奉仕に専念する使徒たちとは別に立てられる訳です(使徒言行録六・一~)。共に生きることを志し、心の面だけでなく生活の具体的な事柄までも含めて実践していた様子が窺えます。
先日、秀澤清さんが天に召されました。登美丘教会でのことでありましたが、ずっと教会学校の教師として善い働きをしておられたとのことです。日曜日の朝、登美丘教会教会学校の福町分校に出かけ教会学校教師として仕え、それから教会に行って主日礼拝をささげ、その後は子どもたちを自宅に招いて付き合いました。一日中、教会のため、子どもたちのために捧げました。時間を子どもたちと共有するのですね。
今日、子どもたちの居場所がない。家庭が失われている子どもたちも多数いると言われています。最近は乳児院や児童養護施設と共に家庭に、里子や養子として迎えたり、家族同然に生活するファミリーホームが求められています。こういう仕方で一人の小さな人格が大切にされるように求められるようになってきました。日本ではまだまだ乳児院も足りませんし、また里親や養親になる人、ファミリーホームを試みる人も少ないですが、人を盗まないで与えるとは、そういう子どもたちと共にいる時間と生活を整えることも一つの大事な形、在り方になるのだと思います。人を与える課題が今日たくさんあると思ったことです。
今日はこの後、教会総会を開きます。二〇二〇年度活動目標の柱として掲げている言葉の一つが「聖徒の交わり」、使徒信条で告白している言葉です。聖徒の交わりとは何なのか、教会で具体的にどういう形として展開し得るのか。これを次年度主題にしてみたいと考えて、活動目標に表してみました。そして「相互牧会」。牧会とは牧師だけがすることではなく、私たちみんながお互いに思い合う、牧会し合う相互牧会です。出来る事なら教会の中だけでなく、地域の方たちと共に相互牧会が出来れば尚更良いなと、どれだけ出来るかどうかはともかく、まず考えてみましょう。
人を与えよう、共に生きよう、この戒めが今日の私たちにも語りかけている大事な事柄であると
思わずにはおられません。
主イエスはザアカイの方向転換しようとする姿を見ながら、最後にこう仰いました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。ここで主イエスは捜してと仰いました。百匹の羊の譬え話でも「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ一五・四)と言われました。捜して救う意識を以て取り組む牧会、教会の二〇二〇年度の目指すべき課題の一つであると確信する次第です。今日の総会にて、聖徒の交わり、相互牧会についても思いを重ね合わせたいと願います。キリストに見い出された私たち、ここに思いを向けるなら、私たち自身も気が付けば、与える者へ、共に生きる者へと新しくされていくに違いありません。