日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年12月6日 説教:森田恭一郎牧師

「主が来られる時まで」

ヨエル二・二三~二四
ヤコブ五・ 七~九

待降節の日々を過ごしています。暦の上では救い主の降誕・クリスマスを待ち望む期間です。旧約の時代に身を置いて主のご降誕を待ち望みます。ただ私たちは実際には新約の時代を生きています。ですから、主の再臨を待ち望みます。この再臨を、救い主の第一の到来に対して第二の到来と言うこともあります。今日のヤコブ書も、主が来られる時まで忍耐しなさい(五・七)と主の到来を語りますが第二の到来を語っています。今日は第二の到来を待ち望むことについて思い深めます。

 

第二の到来でおいでになる主イエス・キリストが今度お見えになる時には、裁く方として来られます。この言い方が気になりますね。私たちは裁かれるのかと……。ここで私たちは、最初の到来と再び来られる第二の到来の繋がりと区別を弁(わきま)えなければなりません。区別を先に言います。主イエスは第一の到来の時には、十字架で裁きを受ける側のお方としておいでになりました。

十字架のこの死の出来事は、全人類の罪を贖う救いの出来事です。それは一般の人には理解されることなく、隠されたままです。主イエスのご降誕だって、神の御子、救い主のご降誕だとは誰も気付かない。もし気付いたら、宿屋の主人は喜んで部屋を提供したでしょう。お育ちになったナザレの人たちが主イエスに躓くこともなかったでしょう。一般には隠されたままです。

それに対し第二の到来は、みんなが気付きます。何故なら、人の子の徴(しるし)が天に現われるからです。人々が人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る(マタイ二四・三〇)からです。

主イエスはこうもお語りになりました。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」(マタイ二四・二七)。あっ、雷が落ちた。みんな分かる訳です。それから「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」。これも、はげ鷹が集まって来たのを見れば、あそこで動物が死んだのだなということが遠くからでも誰にでも分かる。そしてこうお語りになりました。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じ様に、あなた方は、これらすべての事を見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(二四・三二~)。

雲に乗って来るなどの表現は当時の黙示文学の慣用句ですので、文字通りにこれらのことが起こると信じる必要はありません。これらの表現で言い表している事柄は、第二の到来は誰にも分るということ、それを言っている訳です。

そして主イエス、病を担い、痛みを負って、軽蔑され、無視され、罵られ、見捨てられていったイエスという男が実は神の御子であり、その十字架は実は贖罪の死の救いの出来事であるのだということが、明らかになる。イエスの存在の意味と十字架の出来事の意味が世界中の人たちに明らかになる。全ての人が救いの中に招かれていることが明らかになる。これが第二の到来の特色です。

 

ヤコブ書は、第二の到来を裁く方が戸口に立っておられます(五・九)と記します。この戸口という単語は、他に戸とも訳されますし、門とも訳されたりもします。十人のお乙女の譬え話(マタイ二五・一~)で、花婿が到着して、用意の出来ている五人は花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。戸が閉められて後から来た愚かな乙女たちは婚宴の席に入れなかった話ですが、主イエスは一連の譬え話の後、十字架につけられる受難予告を致します(マタイ二六・二)。婚宴の席に入れなかった裁きを私が負うのだと、この譬え話を受けて受難予告をされました。

戸口、戸、門。救いと裁きを考える上で、一つのキーワードになる言葉です。この単語を調べて行きますと、キリストの側で開け閉めするのと、人間の側で開け閉めするのがあると気付きます。

キリストの側で開けて下さるのは例えば、聖なる方、真実なる方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、誰も閉じることがない。その方が次のように言われる。「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉じることは出来ない。あなたは力が弱かったが、私の言葉を守り、私の名を知らないと言わなかった」(黙示録三・七~)。

人間の側で開け閉めするのは例えば、悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう(黙示録三・一九~)。

十字架の贖いを経て、キリストの側ではご自分の戸を開けて、私たちをお招きになっています。

 

主イエスの第一の到来と第二の到来の間、それが私たちの待降節ですが、主を待ち望む上での人間の側の課題は主イエスに向けて自分の戸を開けること、開け続けることです。それを悔い改めと言います。

このようにキリストがせっかくご自分の戸を開けて下さっているのに、人間の側では自分の戸を閉めたままの人たちが大勢いるのも現実です。

私たちは、キリストの側の戸が開けられていることを自分に対しては心に留めて、世の中に対してはこれを明らかにしていかねばなりません。これが教会の務めです。主イエスの甦りと聖霊降臨の出来事のあと、十字架と復活を目撃した使徒たちが、この出来事の内実=意味を語り始めました。それが今日、新約聖書として歴史に残りました。ヤコブ書は、主が来られるときまでの間の忍耐を語ります。兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。ここでヤコブが語る忍耐は雨が降るのを待つことです。忍耐して待つことが出来るのは、時が満ちればまた必ず雨が降るからです。

ヨエル書はこう語っています。シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせて下さる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる(ヨエル二・二三)。雨がまた必ず降ると忍耐して待つことが出来る理由をさりげなく語ります。それは「元のように」です。以前降ったように、元のように、また降る。救い主キリストの第二の到来の確かさも、救い主が以前来られたようにという事に在ります。そのようにまた来て下さる。

このように、第一の到来は一般に隠されているが、第二の到来は誰にも明らかであるという区別が一方にあります。また他方、元のようにという第一の到来と第二の到来の繋がりもあります。

 

ヤコブ書は、二つの到来の中間にあって必要な姿勢を、忍耐することと共にもう一つ掲げています。それは、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです(ヤコブ五・九)。不平を言う、呻く、ため息をつく、深く息をつく苦しみ悶えるなどと訳されたりもしますが、不平を言うというこの単語も不思議な用いられ方をしています。と言いますのは、主イエスも不平を言われたからです。でもよく読みますと、神様に向かってです。耳が聞こえず舌の回らない人を前に、天を仰いで、深く息をつきました(マルコ七・三四)。それから聖霊も呻きました。霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きを以て執成して下さるからです(ローマ八・二六)。神様に向かって執り成しをする呻きです。パウロも呻き、苦しみ悶えました(ローマ八・二三、Ⅱコリント五・二、四)、そうであるならば、私たちだって不平を言っても良い訳です。

ヤコブ書が注意しているのは、互いに不平を言わぬことです。主イエスも聖霊もパウロが不平を赦されるのは神様に向かって言っているからです。でも互いに対しては言わない。主が来られる。戸口に立っておられる。その主に向かってなら、むしろちゃんと呻いたり、ため息をついたり、苦しみ悶えていい。主イエスは聞き取って下さいます。その主イエスが、再び、しかし、罪を贖った方として戸を開いて確かに来て下さる。今日のヤコブ書は、だからその希望の中で呻きながらも忍耐出来る、と私たちに、主イエスを仰ぎ、主イエスにあって希望を持つことを求めています。聖餐に於いて、しっかりと主イエスに向き合えることを感謝します。

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