日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年1月15日 説教:森田恭一郎牧師

「キリスト賛歌」

申命記二六・五~一〇
フィリピ二・六~一一

フィリピ書の今日の箇所(二・六~一一)は、神やキリストを主語とする信仰の告白のようなキリスト賛歌と言われる文章です。パウロが当時の教会の礼拝で言われていた讃美歌の歌詞をここに引用したのだろうと言われています。とても心動かされる感動深い歌詞です。私たちもこのキリスト賛歌に心を動かされたいと願います。

 

フィリピ書二章冒頭の記事からしますと、教会の中で心を合わせられない何かゴタゴタがあり、パウロは教会の平和を作り出すために必要なことをここで提示します。それは、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい互いにこのことを心がけなさい(フィリピ二・二~五)ということなのですが、単なる道徳的姿勢を打ち出しているのではなさそうです。なぜなら、それはキリスト・イエスにも見られるものです、とキリストに思いを向けることを勧めているからです。ここでキリスト・イエスにも、と訳していますが、キリスト・イエスにこそ見られるものです、と考えるべきと思います。私たちにもあるがキリストにもあるという話ではなく、私たちには到底真似できないけれども、キリストにこそ思いを向けることなしには、到底、平和を作り出すことは出来ない。だからキリストに思いを向ける、ということです。パウロはそのために、このキリスト賛歌を思い起こさせています。キリスト賛歌から響いてくるキリストの素晴らしさに気付いてこそ、私たちも心を動かされるのです。

 

このキリスト賛歌、実に内容の豊かなものです。フィリピ書のある説教集では五回に亘って説教しているほどです。その豊かさを今日一回で語り尽くすことはとても出来ません。でもその一部でも分かち合いたいと願います。

 

まず、主イエスは神様御自身です。これは教会、そしてキリスト教徒にとって大前提のことです。けれども初代教会が教会の正式な言葉として、主イエスは父なる神と同質、等しいお方、即ち神御自身であられると表明できたのは、紀元三〇〇年代後半になってです。それまでの長い間、主イエスは神なのか人間なのかを巡って論争が続いた。主イエスは神ご自身、神の御子であられます。私たちの教会はこの理解の伝統を受け継いで、今日あるのです。                  ですからクリスマスも、可愛い赤ちゃんイエス様のお誕生ではなく、神であるお方が天から降ってこられた神の御子のご降誕です。これをキリスト賛歌はこう表現します。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。主イエスが神御自身であられることは私たちの信仰の大前提であり、当然のこととして私たちも告白するのですが、慣れっこになっていないだろうか。  でも思えば、主イエスが御子であられることは決して当たり前ではありませんし、簡単なことではないはずです。神様であるのにそのことに固執しないで、人間になる。普通に考えて出来ますか。 大統領だった人が選挙で負けても大統領であることに固執し続けてゴタゴタする。そのような権力闘争どこにでもある。主イエスは、神の身分に固執しないで人間になる。しかも僕=仕える奴隷になる。普通に考えて出来ますか? ここに思い致すと感動します。

 

僕になるというのは続けて、人間の姿で現れ、謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。罪がないのに、罪をきせられ、犯罪人とされて処刑される。不幸なことに強いられてそうなってしまう人は大勢いますが、自ら受け入れることが出来る人なんていません。主イエスは神の御子だから当然のように出来たのだということでもありません。主イエスだって嫌だった。自分の願いではなかった。でも私たちの救いのために御心が行われますようにと受け入れた。あのゲツセマネの祈りに象徴される、主イエスのご生涯の闘いがあった。このことに気付くと感動しますね。先ほどの説教で説教者はこう語っています。「我々は、キリストの恵みとか、キリストの救いとか口では言うのですが、いつでも実感がないのです。中身が空疎になっている。それは何故かといえば、キリスト御自身の戦いを知らないから、そして、神が人となることの恐ろしいまでの真実さを知らないからであります」。これはこの説教者が、私は知っているぞ、皆さんは知らないだろ、ということではなくて、やはり、私たちはキリストの御業の深みは知らないのだと思います。    だから、主イエスの十字架も、そのように犠牲的な素晴らしい人だったという話になってしまいかねない。そうではなく、神様であられるお方が自ら十字架の死に至るまで謙られた。父なる神に従順であられた。神の御子がそうなさった。このことを私たちはいつも新鮮に知っておこう、感動しますね、心が動かされますよね、というこの信仰の姿勢が私たちに不可欠なのです。御子であるお方が十字架の死に至られた。ここに私たちの思いを致す。そして心を動かされたい。       私たちはキリストのようには出来ません。でもキリストのお姿に思い致す時、私たちの平和に向かう何かが変化してくるに違いない。キリストに思いを致す自分とそうでない自分、同じ自分であるはずがない。心の有り様、生活の仕方、何かが変わってくるはずです。礼拝も、例えば自分の意に適う良い話をいたで満足する自分と、御前に平伏して神を拝む自分と、同じ自分ではないはず。

 

従順であられた。神御子が従順であられる。これも不思議な言葉です。神様なら、自分のやりたい放題、横暴であっても文句は言えない。でも、御子キリストはそうではなかった。ご自分が十字架にかかることが万民の罪の贖いになる。神の御子だからこそ、意味が出てくる十字架なのですが、主イエスだって、わざわざ十字架にかからなくても魔法の棒を一振りして万民をお救いになることを願うことも出来たでしょう。でも、十字架でないと悪を裁く正義、かつ私たちへの罪の赦しの愛にならない。これが父なる神の愛のご計画なのだ、主イエスが受け入れられました。私たちは自分の願ったようになれば救われたと思いがちです。神様の御心のようになることは受け入れ難く思うのかも知れません。神のお示しになられたここに救いがある、と受け入れるのが従順ということです。この御子の従順でいて下さったことも味わうと、心を動かされます。

 

キリスト賛歌の聖句を一回では語り尽くせません。それで、最後の言葉に思いを向けます。「全ての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父で在る神をたたえるのです」(一一節)。公に宣べるというのは告白するという言葉です。その意味ではこの賛歌は讃美歌の歌詞であると共に、今で言う信仰告白の言葉であるとも言えます。

賛歌を歌う。その言葉を信仰告白として味わう。それはただお堅い勉強ということではなく、神に心を動かされることです。キリスト賛歌も礼拝で繰り返し歌われ、唱えられた、その意味では決まり切った言葉です。当時は新約聖書はまだありませんでしたし、今日決まった文章として整えられた使徒信条のような告白文もありませんでした。だから、いろんな考えがあった。主イエスを神ではなく最高の人間とする程度の考えもあった……。でもその中でキリスト賛歌のこの定型文を生み出し讃美歌にした初代教会の信仰者たちは、ここに救いがあると主イエス・キリストに感動した。キリストの御業をじっと味わいながら、これが自分たちの救いになるのだと気付いた。心を動かされた。そして神をたたえる礼拝者に変えられた。そしてキリスト賛歌の言葉が礼拝の中で生み出されてきた。今日聖書や信仰告白の言葉と同じように、このキリスト賛歌を大切な言葉として内容を味わい心を動かされた。               そしてパウロは教会の平和が満ちるようにと、このキリスト賛歌を共に歌おう、ほめたたえる礼拝の心を一つにしようとキリスト賛歌を引用したのでした。

今日読みました 「私の先祖は、滅び行く一アラム人であり」(申命記二六・五~)から始まる申命記の文章もイスラエルの民の信仰告白の文章です。神の思いがけない御業によって救い出された自分たちを語っている。文章の主語を自分たちにして自分の受けた恵みを語るという意味では、証の要素を表現した信仰告白です。彼らも「地の実りの初穂を、今、ここに持ってきました」と、礼拝をささげている。礼拝者へと変えられています。

 

私たちも、心が動かされるほどに、信仰告白の言葉を告白するようになりたいと願います。

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