マラキ 二・五~七
ガラテヤ二・一~五
教会行事暦では本日は世界聖餐日です。そこで聖餐に関係する祈祷課題を週報に二つ載せました。一つ目は、聖餐が世界の宗派・教派の一致のしるしとなりますように。全世界の正統なキリスト教の本質は、今日の聖書の言葉で言いますと、福音の真理(ガラテヤ二・五)です。これがあちらの教会とこちらの教会で一致していないとなると、同じキリスト教会にはなりません。
そして、礼拝堂の中で福音の真理を体現しているものがあります。それは何でしょうか。おそらくプロテスタント教会の私たちは「聖書」と思う方が多いのではないでしょうか。河内長野教会は礼拝堂内の十字架を掲げる代わりに聖書を講壇に置いています。福音の真理はここにあると表現している訳です。そして聖書の使信を凝縮して表現しているのが「信条」です。使徒信条や信仰告白です。そして聖書と信条に基づいて説教が為されて、説教も福音の真理を語っていることになります。
福音の真理を礼拝堂で体現しているもの、実はもう一つ、カトリック教会や正教会も含めてあるもの、それは聖餐卓です。河内長野教会も説教者と会衆が聖餐卓を中心にして向き合っている訳です。礼拝堂の中心に聖餐卓があることを現しています。そう言いますと、説教壇は中心でないのですかと問われるかも知れません。そもそも説教は、聖餐卓で行われる聖餐の儀式が何を現しているのかを語るためのものです。また洗礼盤はどうなのですかと問われるかも知れません。そもそも洗礼は、聖餐に与るためのものです。ある問と答えのやり取りがあります。 「何故洗礼を受けるのですか」。「聖餐に与るためです」。受洗理由が明快ですね。 以上のように考えると聖餐卓が中心です。もっとも、聖餐卓、聖餐を指し示す説教壇と洗礼盤、この三つが礼拝堂の中心を構成していると言っても良いでしょう。
以前にもお話ししたことがあるかと思いますが、テレビで名曲コンサートの時間にオルガン曲が奏でられると、画面はその教会や、オルガン、そしてキリスト像などが映し出されるのですが、聖餐卓にフォーカスされる事は殆どないのではないか。恐らく福音の真理を理解しない未信者のカメラマンは、聖餐卓を見てもただのテーブル位にしか思えない。また実際に儀式を見ても、ただのパン、ただの杯のワインなのではないか。
話を戻しますと、聖餐がキリスト教の本質を現している。それでこの聖餐が全世界の正統な諸教会の一致のしるしになり得る訳です。しかし、聖餐を大事にする分、聖餐理解がカトリック教会、プロテスタントのルター派教会、改革派教会で、各々強調点があって、それがなかなか一致できない原因にもなっています。だからこそ世界聖餐日が制定されているとも言えます。それで聖餐が世界の宗派・教派の一致のしるしとなりますように。
祈祷課題の二つ目、聖餐が教会の信仰と私たちの生活の中心との確信が深まりますように。パウロがこのガラテヤの信徒への手紙を書き記した頃、新約聖書はまだ編纂されていませんでした。世界信条とか基本信条とかありません。イエスを主、その父なる神と聖霊なる神と告白する使徒信条も整っていませんでしたし、主イエスを御子なる神として神学的な表現で三位一体を告白したニカイヤ・コンスタンティノポリス信条(三八一年)や、主イエスがマコトの神、マコトの人である神人両性を告白したカルケドン信条(四五一年)もなく、教会の教義として福音の真理は確立していませんでした。
あのナザレのイエスとは何者なのか。本当の神の御子なのか、ならば人ではないのか、ユダヤ教の神と何が同じで何が違うのか、反対に理想的な人なのか、また十字架の意味は何なのか等々、理屈は色々出てきた。
これらのことは、歴史の中で吟味されていきます。どのような理解が本当に人を救うのか、またイエスがどのようなお方であるなら礼拝を受けるに相応しいお方となるのか。礼拝の歴史の中で見えてくる訳です。それが全世界の教会の共通の基本的信仰理解、福音の真理として確立するのに、既にパウロの時代から始まって四百年かかった。
キリスト教の真理はしかし、議論して論理を詰めて極めていく論理的、哲学的真理ではありません。出来事の真理です。パウロにしてみると、私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示に拠って知らされたのです(ガラテヤ一・一一~) とある通り人々の議論を通して知ったというのではありません。啓示による、出会いによる、出来事です。
呼びかけられ、迫害者としての罪が赦され、十字架の意味を知らされ、使徒としての務めを与えられた出来事です。だからブレない。私たちは片時もその様な者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした(ガラテヤ二・五)とある通りです。そのような者たちというのは、福音の真理を弁えていない者たち、ここでは、キリストを信じるだけでは駄目で、割礼を受けるなどユダヤ教の律法を守らなければ救われないと主張する偽の兄弟たちで、パウロにしてみると私たちがキリスト・イエスによって得ている自由(ガラテヤ二・四)をつけ狙っている者たちです。思えば私たちは、律法を守らねばならないとか、修行を積んで悟りを得なければならないとか、そういうことから自由です。恵みによって救われるだけです。
このようにパウロ自身はブレがなかったのですが、人々はまだブレる。よく分からないことがある。だからパウロは教会に願ったことがありました。それは福音の真理が、あなた方のもとにいつも留まっているように(ガラテヤ二・五)ということでした。あなた方とは信徒の人たちと言っても良いし、ガラテヤの教会と言っても良いでしょう。福音の真理がいつも留まっている教会。これを使徒信条の告白分で言いますと、我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず、の公同ということです。パウロはまだ公同という用語は知りませんでしたが、その中身、キリストがいつも留まっている、福音の真理が留まっていることを、教会の中心的事柄として弁えていました。
それで、福音の真理がいつも留まっているように代々の教会が大事にしてきたことがあります。それが聖餐式です。ユダヤ教にはありません。まして他の諸宗教にはありません。キリスト教だけにある固有の儀式です。これは、あなた方のための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい(Ⅰコリント一一・二三~)と主イエス御自身が命じたもう聖餐式です。この聖餐が、教会の信仰の中心です。
そうは言うものの、やはりプロテスタント教会の中心は聖書なんだし、聖書があって礼拝でその説き明かしの説教があれば、聖餐に与らなくても、それで十分だ、という思いがありませんか。そしてそういう教派もあります。無教会や救世軍には洗礼も聖餐もありません。
それに対して、やはりこの聖餐が、私たちの信仰生活の中心だ、と言える方たちは幸いです。何故なのか。福音の真理は理屈や論理に留まるものではないからです。信仰は、ただ教えを受けているのではありません。ましてや悟りをひらくのではありません。キリストの出来事に触れています。聖餐のパンと杯はキリストの十字架で裂かれたキリストの体、流された血潮、その贖罪の出来事を現しています。また聖餐卓は私たちがいずれ与る天上の食卓を先取りして現しています。出来事です。丁度、幼子が母親に抱かれるその出来事の中で安心するように、私たちもキリストの出来事の中で人となられたキリストの臨在に触れ、救いを味わっている。日々の営みの中で色々困難があっても、神様は本当にいらっしゃるのだ、立ち戻れる。それを聖餐に与ることによって体得しているのです。
私たちも聖餐式が現している恵みを、信仰を通して理解し受けとめ聖餐に与ります。私たちもキリストの福音の真理が留まるようにされ、救いの中に置かれています。私たちもブレない。この聖餐が、私たちの信仰生活の中心です。