日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年8月25日 説教:森田恭一郎牧師

「キリストを悟る賢さ」

箴言  一九・一四
Ⅰコリント四・七

河内長野教会は来年七月、教会創立一二〇周年を迎えます。教会の創立者は、一番の基は神さまご自身ですが、当教会の歴史上の創立者は、アメリカのカンバーランド長老教会から派遣された宣教師、A・D・ヘールです(一八四四~一九二三)。そこで最近の説教は『A・D・ヘールに学ぶ』の書物から引用してお話しています。この書物の著者は中山昇、清教学園の創立者の一人です。     今日は、目次で言いますと「結婚」の所からまず引用します。アレキサンダー・ダーハム・ヘール二四歳の時、レーチェル・リンゼイ嬢と結婚された。私は可成り多くの宣教師の家族を見て来たが、生涯を同じ国で使命を果たされるというケースは少ない。その数少ない家族に共通する特色は、夫人の協力が並々ではないということである。夫が如何に召命感の強い伝道者であっても、夫人が長い年月、異教の地に耐え抜くだけの信仰の勇者でなければ、宣教活動は全うされない。未練を残しながら日本を去られた宣教師のいかに多いことか。これを考えればA・D・ヘールは実に素晴らしい半身を得られた。彼女の信仰は幼少の時に与えられ、生粋のカルヴィニストとして教会が大切に育てあげた人であった(同書二五頁~)。そして終わりの所でこう著者は語ります。箴言に「家と富とは先祖から受け継ぐもの、賢い妻は主から賜るものである」と述べられている。我々の受けているもので、神様からの授かりものでないものは一つもない。ということで、ここに引用されている旧約聖書の箴言一九章一四節と新約聖書のⅠコリント四章七節を今日の聖書個所と致しました。

 

改めて、賢い妻は主から賜るものである。箴言には妻について他にも記述があります。例えば、有能な妻は夫の冠(一二・四)とか、妻を得る者は恵みを得る(一八・二二)とか。夫については箴言には記述が見つかりません。でも妻については逆もあります。愚かな息子は親の破滅。いさかい好きな妻は滴り続ける雨漏り(箴言一九・一三、聖書協会共同訳)。そして著者は この賢い方の妻の記述をヘール夫人に当てはめた訳です。さらに、賢い妻は神様からの授かりものだと記し、最後に記します。異教の地に神の福音を運ぼうとする聖なる使命を与えられた先生は、目的を一つにして、喜びも苦しみも共に担える半身を神様から賜ったのである。                   そして著者は結婚の文章をこう結んで終えます。「賢い」とは神様を知っている魂に与えられた冠である。賢いというと、頭が良いとか要領が良いとかのイメージを持つかもしれませんが、著者は、神様を知っていることだと言うのですね。冒頭の招きの言葉で言うと、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟る(コロサイ二・二)ことです。神を知る、キリストを悟る、心に留めておきましょう。夫であれ妻であれ、各々の人生の目的を共有しながら、好きだ嫌いだということを越えて、お互いがお互いを、主から賜った賢いパートナーだと思えれば幸いですね。

 

さて、夫婦の話は一端置きまして、少々私の経験からの話になるのですが、ここで著者が語った我々の受けているもので、神様からの授かりものでないものは一つもない、という言葉、私はこの聖句を直接聖書からではなく、小さな冊子から知りました。『謙遜のしおり』という本です。題名の如く、謙遜を勧める本です。例えば、誰かと議論になった時、どう考えても自分の方が正しいと思っても、高ぶるな。神様が相手との議論を通してあなたを謙遜にしようとして下さっているのだと考えなさい。例えばそんなことが書いてある。これを読んだからと言って、私が謙遜な者になったという訳ではないのですが、まだ教会に行く前これを読んだとき、中学生の頃、何故か心に留まりました。

改めて聖書そのものを読みましょう。あなたを他の者たちよりも優れた者としたのは誰です(?)。

一体あなたの持っているもので、戴かなかったものがあるでしょうか。もし戴いたのなら、何故、戴かなかったような顔をして高ぶるのですか(Ⅰコリント四・七)。この聖句も高ぶることなく謙遜であるようにという勧めの言葉です。清教学園でよく耳にするのが、賜物を活かすという言葉です。長所を活かすということでしょうか。でもこの長所も、賜物ならば賜ったもの、戴いたもの、プレゼントですね。自分には長所がないと嘆くことはない。戴くのを待てばいい。あるいは既に戴いている所があると気付けばいい。嘆くこともないし高ぶることもない。持っているもので戴かなかったものがあるか。この聖句が何故か心に留まって、気が楽になりました。

 

それから中学生の頃に心に留まった聖句がもう一つあります。直接聖書を読んでだったか、何か書物を通してであったか覚えていないのですが、隠れた所におられるあなたの父、隠れたことを見ておられるあなたの父(マタイ六・四、六)という聖句です。これは、私が隠れて何か悪いことをしても天の神様にはお見通しだぞ、という見張られている意味よりも、周囲の友達や先生から評価されなくても、父なる神様がちゃんと見ておられる、知っていて下さる、という見守られている意味の言葉として響いてきました。この聖句にも、何か支えられて、嬉しくなりました。評判も気にしないで良いのですから。

聖書の言葉が何故か心に留まって、自分を支えてくれるようになる。これは頭で考えた理屈ではなくて、私の身に起こった出来事です。聖霊なる神様の働きかけです。出来事が私を導きました。

 

私の聖書のみ言葉体験の紹介になってしまいました。あの頃はまだ、生き方を考えていただけで、イエス・キリスト、まして神の秘められたご計画であるキリストとか、十字架や復活の救済の出来事とかには全く思いが及びませんでした。     それでも何を言いたいかと言いますと、聖書の言葉が心に留まると、皆さんを支えてくれる、ということです。聖書の言葉が心に留まると、こうやって、神様を知る魂へと、知識として頭で知っていることが、いや全然分かっていなくても、聖書の言葉が出来事として実際の生活の中で支えて、魂で神様を知ることへと少しずつ導いてくれます。  ヘール夫妻、祖国アメリカから遠く遣わされ、異教の日本の地で使命意識を持って生涯を全うされたお二人、またご家族でした。苦労しつつも、聖書の言葉に出来事として支えられながら、魂で神様を知り歩んだに違いありません。「賢い」とは神様を知っている魂に与えられた冠である。

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