イザヤ書四二・一~四
フィリピ 二・六~一一
使徒信条をはじめ教会が告白していることは、父、子、聖霊の三位一体の神様を信じる信仰です。その信仰を日本の私たちが信じるために、最初に理解するべきこととして、ヘール宣教師兄弟が日本に来て、まず宣べ伝えた信仰の内容は何であったか。『A・D・ヘールに学ぶ』によりますと、最初に教えようとしたことは、唯一の真の神がいるということだった。また、明治の時代、キリスト教の神様を日本の八百万の神様とは違うのだ と真神(まことのかみ)の言い方を選んだ (六二、九七頁) ということでした。八百万の神々がひしめく日本の宗教文化の中で、天地の造り主であられる真の神様を宣べ伝えることは当然でした。日本のプロテスタント教会には、旧武士階級の人が指導者になったと言われたりするのですが、従来のお殿様に代わってお仕えする方として唯一の神様に仕えるのだということが、案外ストンと腑に落ちる所があったようです。
明治の時代とありますが、明治期の日本のキリスト教信仰は恐らく、語る方も受け取る方も父なる神様を真の神様として信じる所に、特色があったと言えるでしょう。 けれども、キリスト教が真の神様を信じることにのみに留まっているならば、ユダヤ教と同じに、旧約聖書だけで事足りるということになりかねない。大雑把な捉え方になりますが、明治期は父なる真の神様を告白し、キリストを信じるのは大正期になって自覚され、実際には、信徒の皆さんにも身につくようになったのは昭和も戦後になってからと言われています。
私たちの信仰はもちろん、父なる真の神様を信じ、キリストを信じるのですが、自覚したいことがあります。真の神様が何故、真であられるのか、ということです。それは、父なる神がお遣わしなった御子イエス・キリストのお姿を見て初めて分かることです。キリストを抜きにして父なる真の神を信じることにはなりません。 初代教会から教会はキリスト教なのです。キリストに出会ったその所に「私の主、私の神よ」(ヨハネ二〇・二八)、と告白しない訳にはいかない、このイエス様こそ神様だと示された新鮮な気づきと驚きがあった。そこからこれまで信じて来た神様をキリストの父なる神様と告白するようにになった。使徒信条の文言の最も初めは「イエスは主である」だったそうです。 そこから、これまで信じて来た神様との関係で言えば、イエス様はその御子であり、神様は主イエスの父なる神様であられる、と整えられていったのでした。
今日の新約聖書個所は、初代教会の信仰を言い表した礼拝で唱えられた「キリスト賛歌」と言われている文章です。賛歌と言われているのですから、礼拝で歌われていた讃美歌の歌詞であったかもしれません。いずれにせよ、キリストを告白し、キリストをほめ歌う賛歌です。先週は、一つになれないでいるフィリピ教会がキリストのお姿に思いを向けることで一つになろうと、パウロがキリスト賛歌を引用したことを宣べましたが、今日はキリスト賛歌そのものに思いを向けます。キリストトは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ二・六~)。神様のことをも告白しほめたたえる賛歌ですが、真の神様の賛歌というより、やはり中心は何と言ってもキリストの賛歌です。そして最後は「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、という事なしにはキリスト教になりません。洗礼を受けられる時も同じです。今は私たちは、キリストを信じますと、はっきりと告白できる。キリストを信じてこそ、私たちはキリスト教徒です。
ただ、うっかりすると、愛にあふれた素晴らしいお人としてのイエス様、を越えられない。この方が神様ご自身だとまで言い切れないでいる信仰者は、まだまだ多いのかもしれません。よく自覚していないと、父なる真の神様を信じることに戻ってしまい、知識としては十分分かっているのだけれども神の御子、イエス・キリストが抜けてしまうことは、いつでも容易にあり得ることです。神の御子キリストへの信仰の曖昧なままのクリスマスはただ楽しいクリスマスになってしまうのでしょう。更に加えて考えるなら、聖霊になる神様への信仰も、数百年かけて整えられた古代の基本信条の言葉があるので知識の上では分かっているけれども、身についた信仰においてはどうか。日本プロテスタント宣教百五十年を越えた位の、私たちにとってはまだまだ課題のままです。 改めて、初代教会が「キリスト賛歌」を生み出した信仰の驚き、気づきを私たちも受け取りたいと思います。神であれるお方が人となられた、そこに単なる道徳を越えた真実のへりくだりを見、イエス様が神であられるお方だから、罪の赦しを経験し、神であられる主イエスだから心からほめたたえる信仰を与えられています。
イザヤ書が待望した救い主のお姿を思い起こします。見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする(裁きを導き出すとは判例を確定するということ。傷ついた葦が折れない、暗くなっていく灯心を消すことのない、一人ひとりを保護する社会を形成するということ)。それで暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置く時までは。島々(異邦人も)は彼の教えを待ち望む (イザヤ四二・一~四)。この預言の主の僕の姿は、キリスト賛歌のキリストのお姿を指し示しています。
クリスマス。クリスマスに教会が祝うのは、へりくだって人となられたキリストのご降誕です。十字架の死に至るまで従順で、神であられるが故に私たちの罪を贖われたキリストのご降誕です。そのために父なる神様が高く上げ、あらゆる名に優る名をお与えになったキリストのご降誕です。教会の私たちをはじめ、天上のもの、地上のもの、地下のものが全てのものが膝をかがめ、全ての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて父である神をほめたたえるに至る、キリストのご降誕です。このクリスマスが、旧約聖書が待ち望んだクリスマスであり、初代教会の信仰者たちが祝ったクリスマスであり、今日、私たちが迎えるクリスマスです。