申命記一四・二二~二三
ルカ 七・四四~四八
主イエスが、弟子たちを覚えてこう祈られました。彼らのために、私は自分自身をささげます。彼らも真理によってささげられた者となるためです(ヨハネ一七・一九)。
今日は教会の暦では棕櫚主日です。主イエスのエルサレム入城の時に人々が棕櫚の枝を以て出迎えたことを覚えてのことです。そして今週は受難週になります。
この金曜日には主イエスは、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまいました。ご自身は何も悪いことをしていないのに私たちの代わりに、私たちのために、罪の裁きとしての死を身に受けられたのでした。この主の御業の故に、私たちの死は、天の国への入口としての死となりました。それはしかし、私たちがただ無罪放免になるということではなく、自らをささげる者となります。主の恵みを覚え、私たちも感謝をもって自らをささげます。ささげる。これが今日の主題です。
ささげる、この言葉から私たちは何をささげていると思い起こすでしょうか。何よりも思い起こすべきは、礼拝です。私たちは「礼拝をする」と言うことが間々あると思いますが、礼拝はささげるものです。ささげることを意識することによって、ささげる相手を意識します。主なるキリストに礼拝をささげることを自覚します。ささげるのは他にもあります。例えば、祈り。祈りも祈りをささげます。キリストに向かって呼びかけます。呻いてもいい、叫んでもいい、大事なことは主イエスに向かって祈ることです。
ささげることで皆さんが一番思い起こすささげものは、献金でしょうか。献金をキリスにささげると自覚するとどうなりますか。先日祈祷会でこのことが話題になったのですが、献金はお賽銭ではないというご指摘でした。お賽銭はギブアンドテイクで願いを叶えてもらえる。百円ギブしたら百円分テイク受け取ることが出来る。これは献金をささげることとは明らかに違います。それから会費を払う、納めるはどうでしょうか。教会員がささげる例えば月定献金は、会費を納めているのでしょうか。違いますね。
献金のお祈りにおいていつも言われるのは、感謝と献身のしるしとしてささげます、という言葉です。献金は既に恵みを与えられていることへの感謝を表している。そして自分自身をささげる。自分の思いも体も、自分の生活も、自分の生き方も、自分の人生もささげて生きる、そのしるしとして献金をささげます。
献身というと神学校に行く、将来、伝道者、牧師になる志を持つことを献身と言いますが、それだけなら、伝道者以外は献身は他人ごとになってしまいます。教会に召されるのも献身、職業も神様から求められていると信じるなら献身です。
主なる神様に自分をささげることを、申命記はこう語ります。あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない(申命記一四・二二、二三)。申命記にとって、ささげるとは「主なる神様を畏れること」、普通の言葉で言うと敬意を表すことです。
そしてささげる量については、必ず十分の一を取り分けねばならない、と記します。先日の祈祷会で、十分の一についてこう伺いました。月定献金は二カ月分になるときつくなる額だと。なるほど、そういう言い方もあるかもしれません。精一杯ささげるということです。もっとも精一杯ささげるとしても、カルト宗教などのように、多額の献金をささげて家庭が崩壊するまでささげる必要はありません。生活をしっかりと保てるように節度ある十分の一です。この節度があるのは、聖書が日々の生活を大切にしているということです。
先程から祈祷会の話題を紹介するのは、橋本通牧師のお言葉から献金の話題となったからです。橋本牧師はこう記されました。献金は収入の一〇分の一をするよう、聖書は規定しています。生活の資より一〇分の一を差引いて神様に捧げることによって、己が生活の内で神様を第一においていることを示すべきです(『しもべの道』23頁)。
この言葉が示していることは、献金はまず取り分けて神様を第一にすることだということです。生活費の余った部分を献金にというのではなく、収入を得たらまず最初に献金として取り分けておきます。今日の申命記も、新しい葡萄酒とか、牛、羊の初子と言っています。他の個所では傷のない初物をささげる、という言い方もあります。神様を第一にするということです。以前会計のご奉仕を下さった方がこう言われました。第一主日に月定献金を捧げる方が多い。そして新札が多い。この教会にはそういう献金の意識があるのだと思います、と。「神様を第一におく」これらのことは「主なる神を畏れる」のと同じです。
先ほどのヨハネ福音書で、主イエスがご自身をささげるという用語は、直訳すると聖別するという用語です。神様におささげする特別なものとして取り分ける、取っておくという意味です。申命記の「十分の一を取り分ける」や「神様を第一においている」も聖別することです。そして主イエスは弟子たちを「真理によってささげられた者となるためです」と言われました。私たち自身と生き方を聖別されたものと理解しておられます。
主イエスは、香油の入った石膏の壺を持ってきて香油を主イエスに塗った婦人(罪深い女と記しています)のしたことを、こう理解して下さいました。だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない(ルカ七・四七)。罪の赦しに大きさとか、多い少ないとかある、ということではないでしょう。主イエスの罪の赦しは誰に対しても無限大です。でもそれを受け取り自覚する度合いは私たちの側にあるののでしょう。この婦人は罪深い女と言われていただけに罪の自覚がしっかりとあり、その分主イエスが罪赦して下さる恵みを大きく受け取ることが出来ました。その応答として、彼女のできる精一杯のことをささげて、主イエスの足に香油を塗ったのでした。それで主イエスは改めて罪の赦しを宣言して確認なさいました。「あなたの罪は赦された」。周囲の人々が罪深い女と看做している中で、主イエスは彼女を罪赦された聖別された者として見ておられる訳です。主はただ罪を赦されただけではない、彼女の存在そのものを聖別して下さったのです。
だから、私たちはこの恵みに応えて感謝と共に献身するのです。感謝と献身のしるしとしての献金、その祈りについては、また次の機会に譲りたいと思います。