詩編 九八・一
ヘブライ 五・一~一〇
ナザレのイエスが神の子、御子であられる。そしてこのイエスが、父なる神様に忠実な偉大な大祭司であられる、というのは、初代キリスト教徒の人々にとって、とっても新しい認識、いや新しい出来事でした。これが今日の主題です。
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた(詩編九八・一)。新鮮な内実を以て、この詩篇を味わい、新しく賛美を歌ったに違いありません。
何かが変わった、何かが新しくなった。歴史の中の出来事ですから、急に変わる訳ではない。けれども時代が大きく変動し始めている。以前の事柄を受け継ぎながらも、しかしもう以前のままではない、と思う時があります。でもその事柄を初めは上手く言葉にして表現することが出来ない。それが「ああそうか」と分かってくる。ヘブライ書の記者も「ああそうか」と自分でも納得できる言葉を探していたのです。
ナザレのイエス。この人を誰と言うか。故郷の人たちは「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」(マルコ六・三)と思った。また人々は初め、「洗礼者ヨハネだ」とか、「エリヤだ」とか、「預言者の一人だ」(マルコ八・二八)とか、以前の概念で表現出来る言い方で考えました。洗礼者ヨハネも「来るべき方はあなたでしょうか」(マタイ一一・三)とナザレのイエスに問いかけた。
ペトロは主イエスから問われた時、「あなたは、メシアです」(マルコ八・二九)と答えました。この方はただの人ではない、以前から人々が待望していた王様だ。メシアという用語には政治的支配者、そんなニュアンスがあります。ペトロは以前から知っている用語とそのニュアンスで答えた。でもその直後、主イエスから、人の子は、多くの苦しみを受け、排斥されて殺される旨、聞いた時、それを理解も納得も出来なかった。そう言えば、マルコ福音書はその冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ一・一)と記しました。用語としては「神の子」も「キリスト」も知られている言葉でしたが、十字架の主イエスと結びついた時新しいニュアンス・響きを伴う表現になりました。
ヘブライ書の記者は、その言葉を見つけた。それが「大祭司」です。先週味わいました聖書個所にもありました。さて、私たちには、諸々の天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか(ヘブライ四・一四)。この箇所でもヘブライ書の記者は既に、ナザレのイエスが「神の子イエス」であることを知っています。イエスが神の子であるとはどういうことか、このことを単なる信仰上の知識ではなく、更に自分で、「ああ、そうか」と分かる言葉を探した。そして、大祭司だ、と気付き、納得した。そうであるなら、この大祭司は、以前のそれまでの大祭司とは異なるのだ。
「大祭司」。ヘブライ書の教会の人たちも、よく知っている用語で、旧約聖書の視点から理解が出来た。だからイメージがすぐ浮かぶ。でもヘブライ書は、これまで通りの大祭司ではないですよ、と注意を喚起している。「大祭司」に丁寧に説明句をつけて、深みをグッと添えて「大祭司」を語る。
神の御前に於いて憐れみ深い、忠実な大祭司、
諸々の天を通過された偉大な大祭司。
大祭司という言葉が深みを増して新しくなった。そして、特別な大祭司だということを更に強調するために、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです(ヘブライ五・一〇)と言って、旧約聖書の特別な祭司であるメルキゼデクのことを紹介して、主イエスが通常の大祭司とは全く異なる大祭司だと注意を喚起している訳です。
メルキゼデクについての説明は後日にしますが、残念なことに、今日の私たちには、大祭司という用語も、ましてメルキゼデクという名前も、余程、旧約聖書に馴染んでなければわからない。いや仮に馴染んでいたとしても、生活感覚がないので「ああ、そうか」と言える程の体感が伴わない。それがこのヘブライ書が、今の私たちに、ちょっと馴染みにくい理由でしょうか。
何かが新しくなる。それは、そこから改革が起こるという事です。私たちの教会は、改革長老教会の伝統の中にあります。長老教会というのは制度の視点から、改革派教会と言うのは教理の視点から表現した言い方ですが、改革派教会のキャッチフレーズは皆さんもお聞きになられたと思います。「御言葉によって絶えず改革される教会」。
この度、河内長野教会では長老の定数を減らして選挙すること、を長老会は提案しています。定数の削減に伴い、「河内長野教会」というものに新たな意味合いを込めたいと願っています。私たちは教会員も長老も、礼拝をささげ、祈りをささげ、相互に牧会し、教会に仕えます。新たな意味合いを敢えて申しますと「長老任せの教会からみんなで形造る教会へ」。長老も「個々の奉仕を担う執事のような長老から、教会の方向性を定め全体に思いを配る長老へ」ということです。教会の日々の営みですから、ある日突然変わる訳ではない。でも、何かが変わる。新しくなる。長老会は、神様からの祝福にあずかれるように新しくなっていくことを祈り求めています。レビ記にありますように、モーセとアロンが民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた(レビ記九・二三)。そのように私たちも、祝福を戴き、主の栄光が現れる教会へと導かれたいと祈り求めています。
さて、ヘブライ書に戻ります。これまでの大祭司から新しい内実と意味合いを持った大祭司へ。
ヘブライ書はこの説明を五章の前半でしています。まず以前のそれまでの大祭司については、大祭司は全て人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです。また、その弱さの故に、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません(ヘブライ五・一~三)。これまでの大祭司は、大祭司とは言っても罪人なる人間の中から選ばれる訳ですから、弱さを身にまとい、民のためだけでなく、自分の罪の贖いのためにも供え物をささげねばならない。
でも主イエスはそうではない。それで、イエスは、神の御前に於いて憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです
(ヘブライ二・一七)が、御自身のために罪の贖いをする必要はなかった。このことが何を意味するのかについては、七章以下で触れることにします。
そして五章七節以下。ここで興味深いのは、御子であるにもかかわらず(ヘブライ五・八)です。神の子、御子、キリスト、当時の人々はこの用語を聞いてあるイメージを既に持っていたでしょう。でも、その以前からのイメージ、概念では、ナザレのイエス、御子キリストは、理解し損ねますよ、御子のお姿を新しく理解しよう、と呼びかけます。神の御子、救い主、キリストであるのにもかかわらず、キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました。大変な驚きでありました。御子ともあろうお方が、激しい叫び声をあげられる。涙を流される、死からの救いを求めて祈りと願いをささげる。それでは弱い我らと同じではないか。およそ御子のそれまでのイメージとはほど遠い。
でもこの実際の主イエスのお姿から、人間の弱さ、罪深さを負って自らを犠牲の供え物としてささげて下さった真の神の子、大祭司のお姿が新しく見えて来る訳です。
主イエスのお姿を新しく知るとき、私たちのささげる礼拝と感謝、信仰の営みもまた、何かが新しく変わって行くに違いありません。