日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年10月22日 説教:森田恭一郎牧師

「キリストの業と信仰、その恵み」

ハバクク二・一~四
ガラテヤ二・一五~二一

今日は二つの聖句を心に留めたいと思います。一つ目は、キリストが私の内に生きているのです (ガラテヤ二・二〇)。二つ目は、私は、神の恵みを無にしません(ガラテヤ二・二一)。

まず一つ目。キリストが私の内に生きているのです、とパウロが言う理由はこうです。私は、キリストと共に十字架につけられています。これはまずは洗礼のことを言っています。洗礼を受け水の中に沈められた時に、キリストを信じていなかった古い自分が死んだ。だから生きているのは、最早私ではありません。もし人が、生きているではないかと問うなら、洗礼で水の中から出てくるときに新しい自分へと甦らされたのだ。パウロはそれを更にこう付け加えます。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

私たちは今、普通に生きています。そうであるのに生きているのは、最早私ではありません。キリストが私の内に生きているのです、と皆さんは言えるでしょうか。もし、自分の人生をキリストが私の内に生きている人生なのだと言えるなら、それは幸いなことです。聖書を読みながら自分のことのように聖書を読むことが出来る。これもまた幸いなことです。

では、言えないなぁと思われるなら、それもまた正直なところです。信仰がまだまだ足りないと思うかも知れません。信仰の幸いへとどうしたら良いのでしょう。パウロはそうだったとしても自分には当てはまらない、とこの聖句を横に置いてしまうのも実際あり得ることです。けれどもそこで、聖書に書いてある。信仰を導くのに有益な書物(Ⅱテモテ二・一六参照)として、真正面に置いてみる。初めは、こんなことあるのかなぁと思いつつも、この聖句を心に留めてみる。そして祈ってみる。聖霊なる神様、私の内にもキリストが生きているということが本当に起こりますように。こう祈りながら、この聖句を思い起こしながら、生きる生活と、全く心に留めないままの生活と、全く同じになるだろうか。導かれて何かが起こるかも知れません。

パウロが事前にこう祈っていたかどうか分かりません。でも洗礼を受けるに先だって、アナニヤがパウロのことをこう言っています。主イエスはあなたが聖霊で満たされるようにと私をお遣わしになったのです(使徒言行録九・一七)。パウロは祈られていましたね。教会の祈りがあったと言っても良いでしょう。

 

旧約聖書の預言者ハバククは神に叫びをあげました。 「主よ、私が助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いて下さらないのか」(ハバクク一・二)。こう叫ぶハバククに神様はこう言われました。 「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ」(ハバクク二・二)。神様に期待する思いが弱まりそうな中で大事なことは、幻、そして願いを明確にし続けることです。私たちに合うように言い換えますと、聖書の言葉を書き記せ。日々の生活を歩む中でも読めるように、聖書の言葉を心の中にはっきりと記せ。そして神様は続けて言われます。 「人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク二・三)。そうやって幻を記して歩む人をこう表現します。「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク二・四)。

キリストが私の内に生きている」。この幻をしっかりと心に刻みながら歩む人が、信仰によって生きる人であり、この御言葉が私たちを欺くことはないと確信して良いのではないでしょうか。そして、確かに、聖霊に導かれ、キリストが内に生きる私たちとされているのではないでしょうか。その時、このようにして、聖書に印刷してある言葉が、本当にそうだ、と自分の経験と重なる言葉、自分の言葉になってくる訳です。

 

二つ目の聖句は、私は、神の恵みを無にしません。これはこのガラテヤ書の主題と言っても良い言葉です。救われるのは無条件に恵みによるのか、それとも律法を行うなど人間の側に条件があるのか。もちろん、パウロは無条件に恵みによって救われる、と言っている訳です。ガラテヤ教会の人たちも、当初そのことが分かっていたのに、それでは不充分だ、という考えに流されてしまいかけた。そうなると、私を愛し、私のために身を献げられた神の子(ガラテヤ二・二〇)の御業、キリストが御自身を私たちの罪のために献げて下さった(ガラテヤ一・四)というキリストの御業、その恵みがどれだけでは足りなかったことになる。それでは神の恵みがないのと同じです。それ故パウロは、私は神の恵みを無駄にはしません、と固く宣言している訳です。

 

救われるためには信仰だけで足りるのか、何か行為も必要なのか、などと言われることがあります。「信仰義認」という用語もあって、信仰によって義と認められると言われます。今日の箇所はパウロは、けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(ガラテヤ一・一六)と言っています。これはキリストへの私たちの信仰によって義とされる、という理解です。うっかりすると、信じることが私たちの行為になってしまいかねません。そこで最近の聖書はこう訳します。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだ(聖書協会共同訳)と訳して、人間の行為と主イエスの真実を対比させています。私は主イエスの信仰と行っても良いと思います。ご自分が十字架にかかることが、ただ死ぬことで終わるのではなく、全ての人の罪の贖いになるのだ、というのは主イエスも信仰を必要とされたのです。主イエス・キリストの信仰によって義とされる、救われると言っても構わない訳です。

十字架の贖罪についての主イエスの信仰と十字架にかかれたその御業があって、この二つは私たちにとって共に恵みです。この恵みを無にしてはなりません。キリストからの恵みによってこそ、私たちは救われるのです。私たちは、恵みによって救われ、信仰を通して恵みを受け取り、それを記す聖句を心に刻みながら信仰によって私たちは生きるのです。今日の二つの聖句もまた私たちの人生を支える生きた言葉になると確信します。

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