日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年3月31日 説教:森田恭一郎牧師

「キリストに、父が全てを委ねたもう」

イザヤ五三・一~一三
ヨハネ一三・一~五

受難週の洗足木曜日礼拝を共にささげ得ますことを感謝します。本日は一三章三節を中心に味わいます。主イエスは、二つのことを悟られました。一つは、父が全てをご自分の手に委ねられたこと、二つ目は、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることです。二つ目は、一節のこの世から父のもとに移る御自分の時が来たことを悟りということと同じ内容でしょう。本日の主題は、二つの事柄を悟り、食事の席から立ち上がって………という洗足の行為に至るその繋がりや必然性は何であるのか、ということです。

 

神のもとから来て、そして神のもとに帰る。クリスマスにわざわざ天上から地上に来て、それで父なる神のもとに帰る以上は、手ぶらで帰る訳にはいかない。そこで、父が全てをご自分に委ねられたことをした上で、帰らねばならない。

委ねられた全てとは何を委ねられたのだろうか。全てを委ねられたのですから、やりたい放題ということでしょうか。主イエスはそうではなかった。弟子の足を洗う洗足の行為でした。仕える行為と言っても良いでしょう。全てを委ねられて、やりたい放題に仕えさせたのっではなかった。自ら仕えることでした。

それなら仕えるとは? 弟子たちの足を洗う洗足が象徴する仕える行為は、主人が僕に仕える、かがんで低くなられた模範ではありますが、単なる道徳的な善き業の模範ではありません。神の御子が罪人のために十字架にかかる贖罪行為という仕える業です。それは私たちに出来ることではありません。そして洗足は、御自身の十字架の贖罪という仕える業を証し、預言する行為です。

 

イザヤ書の苦難の僕の詩は、その私たちの罪を全て、主は彼に負わせられた(イザヤ五三・六)と記します。父なる神様が御子キリストにお委ねになった全てというのは、イザヤ書によれば、私たちの罪の全てです。父から委ねられた全ての罪を受け取り負って、十字架にかかられました。主イエスの仕える行為は、私たちの罪を全てを負う十字架の贖罪の出来事です。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負ったのでした(イザヤ五三・一〇)。

その結果、多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品として夥しい人を受ける(イザヤ五三・一二)。

「多くの人」とか「夥しい人」とありますが、それは「全ての人」と理解して差し支えありません。私たち全てがキリストのものとされた訳です。

 

主イエスは父から全てを委ねられました。それは私たちの罪の全てです。父のこの御心を悟り、罪の全てを負い、贖い、その結果、私たち全てを御自身のものとして、それを携えて父のもとに帰る、このことを悟られました。主イエスは、これを悟られて、これに仕える象徴的な行為として、かがんで弟子たちの足をお洗いになられました。

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