日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年4月13日 説教:森田恭一郎牧師

「イエス様が王であるなら、どんな王?」

エレミヤ一八・一一~一二
ヨハネ 一九・一七~一九

今日は、イエス様が王様である、というお話しをします。教会のカレンダーでは今日は受難週棕櫚主日です。イエス様がエルサレムに入られて子ろばに乗ったイエス様を、人々が棕櫚の葉っぱを持ち、大きな声で叫ぶようにして出迎えました。 「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」(ヨハネ一二・一三)。ホサナは「主よ、救って下さい」という意味です。

この受難週に、ユダヤ人たちはイエス様が自分を神様だと言っている、けしからん奴だと、イエス様をピラトに訴えました。どこかで聞いたことのある名前ですね。使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と主イエスを十字架に付ける決定をした人で、ローマの皇帝から派遣されているユダヤ地方の総督です。犯罪人を裁く裁判官でもあります。

それでピラトは主イエスと出会ったとき「お前がユダヤ人の王なのか」と興味深げに問いかけました(ヨハネ一八・三三~)。それでイエスさまが「私の国はこの世に属していない」と「私の国」とお答えになったので、ピラトは「それでは、やはり王なのだな」と言いました。そして裁判の席で人々に問いかけました。「私はあの男に何の罪も見いだせない。あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか」。すると人々は何と、それを拒みます。

一方、ローマの兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭に乗せ「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手で打ちました。散々、侮辱しています。何も悪いことをしていない、それどころか真の王であるイエス様のことを馬鹿にしています。

ピラトは改めて裁判の席に着き「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、ついこの間「ホサナ、主よ、お助け下さい」と叫んで主イエスを出迎えたばかりの人々が、何て言ったと思いますか。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫んだのでした。この間の時 以上にわめき叫びました。

ピラトは、わめき叫ぶ人々を抑えきれなくなって、言われるがままに主イエスを十字架につける判決をくだします。

ピラトは罪状書きを書いて十字架の上につけました(ヨハネ一九・一八)。 といっても命令したということです。実際に罪状書きを取りつけるのはローマの兵隊です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

罪状書きというのは、人を殺した犯罪人なら、殺人罪と罪名を書きます。さてイエス様にはどのような罪名がつきましたか (カードを見ると、INRIとあります)。ラテン語の頭文字ですが、最初のIはイエスのI。NはナザレのN。Rはラテン語で王という意味のレックスのR。終わりのIはユダヤ人のI。すなわちナザレのイエス、ユダヤ人の王、という罪状書きです。全然、罪を記した罪状書きではありません。むしろナザレのイエスはユダヤ人の王様だと真実を宣言しています。

 

ところで普通、王様というと、王様は何でもやりたいことはやりたい放題に出来るのが王様です。「おれはかまきり」(工藤直子)という詩があります。かまきりが言います。「おう、なつだぜ。おれは、げんきだぜ。あまりちかよるな。おれの、こころも、かまも、どきどきするほど、ひかってるぜ」。まるで王様のような心意気のカマキリ君です。王様はこう言えるのかも知れません。「俺は王様だぞ。俺は元気だぜ。あまり近寄るな。俺の心も剣も光ってるぜ。おれはやりたい放題だ」。

本当の王様は神様です。だから王様はこう言います。 「見よ、私はお前たちに災いを備え、災いを計画している」。何だかやりたい放題です。でもそのお心は慈しみに満ちています。 「お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ」(エレミヤ一八・一一)。

それに対してユダヤの人々は偉そうに言い返します。 「それは無駄です。我々は我々の思い通りにし、各々、かたくなな悪い心のままに振る舞いたいのだから」。これでは、俺こそ王様だぞ、と言っているようなものです。神様に向かって。

イエス様は真の王です。王様だから振る舞いたいことをやりたい放題に出来るのです。力を発揮することが出来る。剣を振り回すことだって、災いをくだすことだって何でも出来る。力がある。そうやって、人をやっつけることが出来る。かたくなな心を持ち、その振る舞いをする人たちを裁くことがお出来になります。

でもイエス様が為さったことは何かというと…、黙って、人間のかたくなな悪い心とその振る舞いとその裁きを、そのまま受けて十字架にかかって下さいました。通常人間は、自分の罪を相手のせいにして相手になすりつけることは出来る。でも相手の罪を負うことはなかなか出来ません。

イエス様は、そうではなくて私たち全てのかたくなな心と振る舞いを、自ら負って下さったのでした。通常の王様とは正反対のお姿です。何だか弱々しい十字架のお姿です。でも実は、そこに王様としての力を存分に発揮されているのでした。これが受難週の主イエスの道行きです。

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