日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年7月27日 説教:森田恭一郎牧師

「まことの神が、われらを民とされた」

創世記一七・一~八
ヨハネ二〇・二八

十戒の一番初めの所で神様は、ご自分のお名前を教えて下さいました。「私は主、あなたの神」(出エジプト記二〇・二)。「主」というのは、ヤハウェ、聖書では「主」と訳していますが、主人の主という意味の普通の名詞というより、ここでは、神様御自身の固有名詞のお名前なのです。私はヤハウェです。

そして神様はここでただご自分の名前を教えて下さったというのではありませんでした。もしそうなら、聞いている私たちは「そうなんですか」で聞き流して終わってしまうかも知れません。そうではありません。ここで神様は「私は主、ヤハウェ」とお名前を告げてから「あなたの神」、あなたと無関係な神ではないですよ、あなたの神様だ、と強く言って下さいました。

皆さんも自分のお名前がありますね。私で言えば、私は森田恭一郎です。神様に自己紹介してみましょう。神様がまず自己紹介。「私はヤハウェです」。皆さんも、はいどうぞ。「私は○○です」。自分のお名前を神様に言えましたね。名前を呼び合えるとお互い距離も近くなってしっかりと関係が出来ます。名前でなくて、そこの人、というのでは呼ばれているのか分かりません。名前で呼ばれると「ハイ」って返事も出来ます。

ある時神様が「私は全能の神である」(創世記一七・一~)とアブラムに声をかけました。「あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい。私は、あなたとの間に契約を立て、あなたを益々増やすであろう」。アブラムはハイっと返事の代わりに平伏しました(聖句カード二〇二五年度版No.15)

そして続けてお語りになりました。「あなたは多くの国民の父となる。あなたはもはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」。ここではアブラハムの自己紹介ではなく、神様がこの人の名前を告げました。「あなたはアブラハムだ」。神様に名前を告げてもらうのは、その人が神様の御前にどういう人=存在であるのか、示さして下さるということです。

そして、あなたの子孫たち、教会の子どもたちに対しても「私は彼らの神となる」(創世記一七・八)と約束されました。さあ、皆さんは、真の神様が神様になって下さった皆さんです。「私はあなたの神となる」と言っておられます。神様が私の神様であられるということは、神様が私に対して責任を以て神様であり続けます。

ある人が赤ちゃんを出産してお母さんになりました。その時からお母さんは、その赤ちゃんのお母さんでありつけるために色々と責任を果たします。赤ちゃんがお腹がへればお乳をあげます。おしっこしたら、オムツを替えてあげます。夜泣き出したら抱っこしてあやしてあげます。朝起きたら服を着替えさせてあげます。などなどやることが一杯です。それは「私はあなたの母親である」からです。心から赤ちゃんを愛して大切にします。もしお母さんがお母さんであろうとしなかったら、お腹が減っても放りっぱなし、おしっこしてもオムツは汚れっぱなし、ということになるでしょう。

実は神様も同じです。「私は主、あなたの神である」と宣言された以上は、神様が神様であられるために神様は責任を果たします。神様が責任を果たさなかったら、罪で汚れた私たちは罪人のままです。でもそうではない。神様は御子キリストを遣わして、私たちの罪を十字架で全部背負って下さいました。そうやって神様は「私の」神でいて下さっています。私たちを愛して十字架にまでかかって下さるまことの神様が、私たちの神様になって下さった。本当に有り難いことです。

十字架で罪を負って下さったイエス様が、その手と脇腹をお見せになった時のこと。弟子のトマスには分かりました。このイエス様が私に向かって「私は主、あなたの神である」とお姿を現して下さったのだ。だから私は平伏しハイっと返事をしよう。「私の主、私の神よ」(ヨハネ二〇・二八)。

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