日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年10月5日 説教:森田恭一郎牧師

「ほめたたえよう、神の御名」

イザヤ一二・四~六
エフェソ一・一~三

今日は、ほめたたえる、ことを味わいたい。

先週の説教では、ペトロの主イエスへの問いかけから始めました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。主イエスは応えて言われました。 「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ一八・二一~)。 そして、この問答に続く天国の譬え話、新共同訳聖書では「仲間を赦さない家来の譬え」と小見出しがついている譬え話です。そして譬え話の結論は、家来だけでなく、主君も、他の仲間たちも、登場人物は全て、赦さなかった。ここで譬え話が終わっている。

先週ご紹介した祈りの言葉、その終わりは「でも、やっぱり、神さま、赦すことはむずかしいです――」。そうなんです。私たちはなかなか赦すことが出来ない。そこで、説教の結論は、主イエスに赦して戴くしかない。それで二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる(マタイ一八・二〇)。これが執り成しの祈りの集いであることを確認しました。即ち、相手を赦してやって下さい、また赦せないでいる自分を赦して下さい、と相手と自分への執り成しの祈りを祈ること、そこへと主イエスは私たちを招いておられる、それが先週の説教の結論でした。

実は、先週の礼拝後に問いかけを受けました。「悔い改めはないのですか」。 質問を戴けるのは嬉しい事です。より深く御言葉を味わえますから。今日は、この問を念頭に置きながら説教したい。                         先週は、ペトロと主イエスの赦しについての問答から譬え話を味わい、そこから二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるの御言葉に立ち戻って、それは赦しを巡る執り成しの祈りの和の中にキリストがいて下さる、とこの二〇節の御言葉を後ろ側から理解しました。

二〇節を通常のようにその前側から理解するとどうなるか見ていきたいと思います。一五節から読みますと、兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの所で忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。罪を犯した兄弟に対して忠告する。忠告の内容は、あなたは罪を犯したのだから、それを認め、謝罪、謝ったらどうだ、という内容になりますね。つまり、悔い改めの勧めです。それで兄弟がその忠告を聞き入れて悔い改めてくれれば、一件落着です。ところが、話はそれで終わらない。聞き入れなければ、他に二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。忠告する人が何か誤解をしていたら申し訳ないことだから、他の人の意見も聞いてみよう、という訳です。そしてそれでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の会議で慎重に取り扱って検証しよう。そして更に、教会の言うことも聞き入れないなら……と続きます。結局、この兄弟は聞き入れず、悔い改めもしない、そのことを想定した展開になっています。つまり、人はなかなか悔い改めないと主イエスが認識しておられるのです。

これを受けて教会は何をすべきか。あなた方が地上で繋ぐことは天上でも繋がれ、あなた方が地上で解くことは天上でも解かれる。繋ぐか解くか、赦すか赦さないか。制度として教会にあるのは、戒規です。信徒たる体面に関わる行為あるとき、教会員として相応しくない言動をした者に、長老会が、陪餐停止、更には除名の決議をすることが出来る規定です。不服申し立ても出来ます。戒規について、誤解のないようにひと言加えます。戒規は罪に対する処罰ではありません。戒規処分ではなく、戒規適用です。その意味は、適用された者が、悔い改めることを促すための制度であるということです。ですから、教会が繋ぐか解くか、赦すか赦さないか、それは、悔い改めを促して赦すことを目指しています。

そして主イエスが言われたことは次の通りです。どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる。二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである。どんな願い事であれ、とありますが、文脈から理解しますと願い事の内容は、どのような人に対しても赦すことを目指して悔い改めを促す、そういう内容の祈りです。教会は、また教会員は一緒に心を一つにして祈り求めなさい。それが教会の務めだ、と主イエスが言っておられる訳です。

先週はこの願い事について後ろ側から立ち戻って、赦しの執り成しとして理解しました。今週は前側から読み進めて、悔い改めへの促しの祈りとして理解しました。そのどちらも祈りの前提にあるのは、赦すことにせよ悔い改めることにせよ、人間はなかなかそれが出来ない。だから主イエスに赦して戴くしかなく、主イエスに悔い改めを促して戴くしかない。それで人間に出来る事は祈ることだけだ、ということです。人がコート、自分の殻を脱ぎ捨てるのに冷たい北風か暖かな太陽か。キリストの十字架に基づく大きな赦しの中で、人は悔い改める可能性が出てくる。いや、それさえも聖霊の導きによるものです。それを祈り続ける。

さて、今日の聖書個所として予め予告しておりましたのはエフェソ書です。これからしばらくの間、主日礼拝の一ヶ月の間に二回ないし三回、エフェソ書をゆっくり味わっていきたいと思っています。エフェソ書は、教会のこと、キリストを頭とするキリストの体である教会を語ります。そこで、教会に連なることの幸いを確認していきます。

教会はキリストの体です。単なる人間の集まりではない訳です。ですから、キリストが中心です。キリスト教徒の私たちにとって、キリストが中心というのは当然のことですが、それを忘れないようにしたい。何故なら、人は誰でも、自分が中心になるからです。

エフェソ書は初めから、これも当たり前と言えば当たり前なのですが、キリストが何度も出てきます。この手紙をこう書き出します。神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち(キリストのものとされた人たち)、キリスト・イエスを信じる人たちへ。私たちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。手紙の最初に祝祷です。そして、私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は私たちをキリストに於いて、天のあらゆる祝福で満たして下さいました(エフェソ一・一~三)。何度もキリストが登場します。これも当たり前ですが、キリスト抜きにキリストの福音はありません。まずキリストです。

手紙の挨拶の後、本文の最初に、ほめたたえられますように、とあります。私たちがキリストの父である神をほめたたえる。そして私たちがほめたたえることに先立って、神は、私たちをキリストに於いて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。祝福という言葉、実は、ほめたたえるという言葉です。日本語として、神が私たちをほめたたえる、というのは違和感があるので、祝福する。そして逆に、私たちが神を祝福するというのは違和感があるので、神をほめたたえる、となっていますが、同じ言葉で、祝福とほめたたえることの幸いな交歓、呼び交わしがある。それがキリストに於いて成り立つ。

今日一番味わい確認したいのは、天を仰いでキリストに於いて神をほめたたえるということは、私たちが教会に連なってキリストの福音を聴くからということです。もし教会に連ならなかったら、私たちは神をほめたたえるでしょうか。神仏に向かってお願いするでしょう。でもほめたたえるでしょうか。人生、不条理や苦難も含め様々あります。そこで願い事もしながら、キリストは救いを現された。だから天を仰いで神をほめたたえることが出来る。それは教会に連なる中での幸いです。

イザヤは、救いが現れた時の応答のほめたたえる姿を語ります。この預言の言葉は、キリストの十字架と復活の救いの御業が明らかになった所で、教会の応答する姿となります。その日には、あなたたちは言うであろう。 「主に感謝し、御名を呼べ。祈りは御名を呼ぶことから始まりますね。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ(!)。主は威厳を示された。全世界にあるその御業を示せ。シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちの只中にいます大いなる方」(イザヤ一二・四)。これは教会の礼拝の様子、また、私たちの祈りの様子を示しているといっても良い。

二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。この礼拝に於いて、私たちの祈りに於いて、キリストがおられる。最初、祈りの内容は、赦しの執り成し、そして悔い改めへの招きの祈りでした。その祈りの中で、キリストが共にいて下さる。故に、罪の赦しを宣言し、悔い改めへと包み込んで下さるキリストの御名をほめたたえる祈りへと導かれるに違いありません。逆に、ほめたたえる中で、赦しを求め、悔い改めを願う祈りの、諦めない持続力も支えられます。これもまた、教会に連なる中で絶えず祈る (Ⅰテサロニケ五・一七)が実現します。幸いなことです。

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