日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年10月8日 説教:森田恭一郎牧師

「ちゃんと叫んでる?」

榮 厳(春日井教会牧師)

マタイ7:7−12

お招きいただき感謝!

今日は子どもたちも一緒の礼拝と聞いています。共に礼拝できることを感謝!

 

◯求めていたら与えられる?

小学生の頃、家が少し貧乏であることに気づき始めた。友達は持っているおもちゃが我が家にはない。親の考え方もあるが、自分の家にはお金がないのだと考えるようになった。実際はそんなこともなかったと思うのだが、当時の自分なりには必死に考えた思いだった。

サンタクロースに「5万円ください」とお願いした。結果はもらえなかった。サンタは諭すように手紙で返答していたが、今では覚えていない。脳裏に、一つの言葉が浮かんだ。

「求めなさい、そうすれば与えられる」(マタイ7:7)

求めたって与えられないではないか!聖書の言葉は現実と違うじゃないかと思った。求めたら与えられるなんて、そんなことは世の中そうそうあるもんじゃない。小さな僕は、聖書の言葉に裏切られる思いを密かに感じたのだった。

 

◯期待しないと求めない

きっと、信じていたことが裏切られるという体験をする人は多い。

友だちは一生仲良くしてくれると思っていた。受験に合格すると思っていた。大会で入賞できると思っていた。病気になんかならないと思っていた。夫婦の愛は冷えることがないと思っていた。

信じていることが裏切られる体験は、いつでも苦しい。

「こんなに苦しいと知っていたなら、出会わなければよかった」と失恋ソングが歌うけれど、そんな気持ちだ。「こんなに苦しいならば、信じなければよかった」。

裏切られる体験は人の「期待」を奪っていく。期待を奪われ、人は求めなくなっていくのだ。

車の免許を取るために教習所に通った。初めて運転する車は、とても怖くてビビりまくりだった。教習所にいる先生に言われた。「何か聞きたいことはあるか?」。聞かれて藁をもすがる思いで聞いてみた。

「このマニュアルの足踏んでる時ってどうなってるんですか?」

もはや質問も意味不明。だけど、とりあえず聞いたらわかるかもしれないと思ったのだ。帰ってきた答えは簡単だった。

「教科書に書いてるやろ」

冷たく言われた一言で、車内が凍りついた。僕はそれから、先生に聞くのをやめた。自分でやるしかないと思った。しかしそれ以上に、聞いたってしょうがないと思ったのだ。人は期待しないと聞くこともしない。この人になら聞いてみたい、この人ならきっと答えてくれるに違いないと思えない限り、求めることはしないのだ。

 

◯求めるとは叫ぶこと

求めるとは、期待することだ。この人なら大丈夫だと思うとき、ようやく人は求めるのだ。逆に言えば、求めないとは、期待しないことだ。この人には何を聞いても無駄だと思う時、人は期待することも諦めるのだ。

裏切られた相手をもう一度信頼するには、しっかりと叫ばないといけない。

友人がアメリカの神学校に行った。実践的な神学校で、あらゆるところに行ってキリストを伝える学びをしていた。彼が行ったのは、刑務所だった。体がガッチリとした映画に出てくるアメリカンマフィアのような人にキリストの話を続けた。しかし、アメリカンマフィアみたいな囚人は話を聞いてくれない。話を聞かれないと、話す方も疲れてくる。段々と無駄に感じる時間を過ごし、最終日を迎えた。「今日が最後だから」といってキリストの復活の話をその日もしていた。すると最後に質問を受けた。「あんたが言ってる神様は俺のことも愛しているのか」。友人はこれはチャンスと思ったのか直ぐに答えた「そうだ。あなたを愛する神様がいる」。囚人は怒った。「いるわけないだろ!」刑務所に入って妻にも子どもにも逃げられた。仲間の裏切りにもあった。人生何度も失敗してきてここまできてしまった。きっと刑務所を出てもこれからも最悪な人生が続く。こんな人生に神様なんかいるわけないだろ。・・・・一通り怒った後、もう一度囚人はいった。「本当に神様がいるのか」。友人は逃げずに言った。「あなたを愛する神様がいる」。囚人は泣いて言った。「もし本当にいるなら、信じたい」

囚人はキリストを信じた。きっとそれは叫べたから信じられたのだ。

叫ばないで信じる日も時にはあるかもしれない。しかし、私たちの信仰の本質とは、「叫ばないで信じる」ではなく「叫んで信じる」。叫んだ先で信じるのが、私たちの信仰である。

 

◯心の思いを聞きにくるイエス

聖書の中には、自分にも、他人にも、神様にも期待を持てなくなってしまったサマリアの女という登場人物が出てくる。この女は、五人の男の夫となった。いろんな男たちと死に別れた。死に別れてそれでも誰かが隣にいてほしくて、生きていく糧が必要で新しい夫を求めた。求めては裏切られる人生の中で、自分自身が何を求めているのかもよく分からなくなっていった。ただもう人目につかず、自分にも他人にも期待せず、静かに暮らしていこうと思っていた。

しかし、そこに主イエスがやってくる。主イエスはそこを「通らねばならなかった」と言われる。いやいや通ったんじゃない。「通らないといけなかった」。自分にも他人にも期待せず、人生の苦しみの中をなんとか生きるしかないこの女に、出会わなければならなかった。出会いにきて言うのです。「わたしがある(ヨハネ4:26ギリシャ語/エゴーエイミー」)と。

わたしがいる。

あなたが自分の人生に期待していなかったとしても。他人から期待されない人生を歩んでいたとしても。苦しみの中で、期待することを忘れた人生を歩んでいたとしても。

十字架のキリストとしてわたしがいる。

あなたの罪に打ち勝つわたしがいる。

キリストはわざわざやってきます。私たちの人生に出会いにきます。

私たちが、自分ではどうすることもできない罪を贖うためです。

二葉亭四迷というロシア語の翻訳家が、「愛する」という言葉の翻訳をこう述べています。

「あなたのために死ねる」

あなたのためなら死ねる。それが愛です。

キリストの場合もっとです。あなたの罪のために死ねる。

立派だから死ぬんじゃない。ボロボロで、どうしようもなく、叫ぶ声すら忘れ、どこまで行っても罪の中にしか生きられないそのあなたのために、死ねる。

この愛を十字架においてまで貫いたのが私たちの主イエス・キリストです。

 

 

◯安心して今日を生きる

ですから、私たちはこのキリストのゆえに、こんな自分を叫び、求めたらいいのです。聖書は「こんな自分はダメだから、もっと修行を積んで、聖書がわかるようになったら求めなさい」って言わないのです。こんなボロボロの自分が、それでもなお神様を信じて求めたらいい。神様に期待して求めていいのだというのです。

そして神様に期待して、今日を安心して生きていけばいいのです。

今日の箇所の最後7:12がこう結んでいます。

 

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

「求めなさい」で始まったはずなのに、「あなたがたも人にしなさい」で終わっています。なんで求める人間は、人に何かをする人間になるのか。

聖書は言っているんです。今日、神様の愛に出ていきなさいと。

神様を信頼して安心して求めたらいいんです。神様が求めを聞いてくださってることに安心していい。求めたこと聞いてもらってるのに、全然違うものが帰ってきて、「えぇー神様これで生きてかなきゃいけないの?」って思う日もあります。ありますけど、でも大丈夫。神様は必ず必要なものを与えてくれて、良いものを与えてくれます。だから神様を信じて求める人は、たとえ自分の願いと違っても安心して生きていったらいいのです。そして神様の愛に安心して生きるならば、神様の愛を信じて出ていくのです。

私にはイエス様が、この話を通してこう言ってくれてるように聞こえます。

「大丈夫、一緒に行こう」

今までどう歩んできたとか、世の中にどんな苦しみがあるとか、将来どんなことが予測されるとか、全部関係ない。

大丈夫。あなたの罪を背負う私がいるから大丈夫。

キリストである私を信じて、一緒に行こう。

世の終わりまで共にいる主が、今日も私たちを支えてくれます。私たちの背中を押してくれます。この主なるキリストを信じて、今日を安心して共に歩んでいきたいと願います。お祈りいたします。

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