エレミヤ 三・一九~二二
ルカ 一五・二〇~二四
本日の主題は「父なる神」。主イエスは「アッバ、父よ」(マルコ一四・三六)と祈られました。父というのは誰の父かというと、まずその御子、主イエス・キリストの父です。
そして、その上で主イエスが私たちに対し祈るときにはこう言いなさい。「父よ」と主の祈りを教えて下さり(ルカ一一・二)、また「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を私たちの心に送って(ガラテヤ四・六)下さいます。つまり、私たちは神の子でないのに神を父と呼ぶことが出来るようにして下さった。そのために主イエスは、私たちを兄弟、(弟や妹)と呼ぶことを恥としない(ヘブライ二・一一)でいて下さいます。御父と御子との関係を、私たちにも広げて下さった訳です。
使徒信条は、私たちが信じる神様は「天地の造り主、全能の父なる神」であると告白しますが、ここに「父」という言葉があるのとないのとではどのような差が生じるのでしょうか。結論を言いますと、「父」の言葉から、神は愛、慈しみの神であると意味づけされます。天地の創造の御業も父であられるから、愛するために天地を、そして私たちをお造りになったということになります。また、全能もただ何でも出来るということでなく、私たちを救うために全能を発揮されるということになります。天地の造り主、全能、父。この三つの内、中心は父にある、父が造り主と全能の意味合いを規定していると言うことが出来ます。
さて、旧約聖書に何回か神を父と呼ぶ箇所があります。まだ御子キリストを知らないのに、何故神を父と呼べるのか。思いますに、それはイスラエルの民が困難な中で神様に頼るしかない、憐れんでもらうしかないと自覚した時に、父よと呼んでいるようです。万軍の主なる神という呼び方とは自ずと響きが異なってきます。 エレミヤ書に、父よと呼ばれた神の側からの言葉が載っています。 「わが父よと、お前は私を呼んでいる。私から離れることはあるまい」(エレミヤ三・一九)。イスラエルの民が困難な中で神をわが父よと呼んだことを神は聞き取っています。
でも神へのこの呼びかけはあくまで、人間の側から思い描く神の姿です。だから喉元過ぎれば何とやらで文章が続きます。「だが、妻が夫を欺くように、イスラエルの家よ、お前は私を欺いたと、主は言われる」。そして裸の山々に声が聞こえる、イスラエルの子らの嘆き訴える声が。彼らはその道を曲げ、主なる神を忘れたからだ。
それなのに「背信の子らよ、立ち帰れ。私は背いたお前たちを癒す」。一二節にも神様の言葉があります。背信の女イスラエルよ、立ち返れと主は言われる。「私はお前に怒りの顔を向けない。私は慈しみ深く、とこしえに怒り続けることはない」。ここには父という言葉こそありませんが、神の側から父としての慈しみ深い姿を言い表しているようです。背信のイスラエルなのに、背信の子らよと敢えて呼び、そして繰り返し、立ち返れ と呼びかけます。人間の側から「父よ」と呼ばなくなっても、暗に、御自身が父としてイスラエルの民に応答しているようです。そして慈しむのはイスラエルが立ち帰ったからではありません。立ち帰ってこないのに「私は慈しみ深く、とこしえに怒り続けることはない」とお心の内にある思いを吐露されています。これは「お前、赦したるから帰って来い」ということだ、と先日の祈祷会で教えてもらいました。
さぁ、ここで思い起こすのが放蕩息子の譬え話です。この譬え話の醍醐味は、物語に父を登場させ父子関係を問うている所にあります。この譬え話はよく、弟が我に返って父の家に立ち帰る悔い改めの話として読まれることも多いようですが、立ち帰る道を整えたのは弟ではありません。弟は確かに我に返って(ルカ一五・一七)考えた。ですが「父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに私はここで飢え死にしそうだ」と自分の幸せを願って空腹の我に返っただけで、自分の父の元に立ち帰ったのではありません。彼は「父の所に行って言おう。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい』と」。こう思って父の所に行く。その父はもう父ではありません。自らを息子とは呼ばず雇い人にして、父を雇い主にしているからです。父の所に行くだけで父の家に立ち帰ったのではありません。
そのような弟を一方的に息子として迎えたのは父でした。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。そして「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言う彼を退けるようにして、しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。弟は父に息子として迎え入れられたこの時になって初めて立ち帰ります。悔い改めは、父なる神様の慈しみが先にあってこそ起こるものです。 因みに兄の方を見ると、兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来て宥めた。しかし、兄は父親に言った。「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。言いつけに背いたことが一度も無い兄、この兄の怒る気持ちもよく分かる。兄は兄で、自分の自己実現を目指して生きている。兄にすれば父は弟を甘やかしているように見える。でもこの時、誠実な息子のように見える兄、本人は気付いているでしょうか。「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。これはもう春闘の労使交渉です。いつも仕事ちゃんとやっているのだからベースアップしてよ。兄もまた、自分を雇い人、父を雇い主の関係にしてしまっている。また弟を「あなたのあの息子」と呼んで「私の弟」とは言わない。兄自分の幸せを願っているだけです。結局、弟も自分のことしか考えない、兄弟関係を結べない所に家庭の崩壊もあります。その点、主イエスが罪人でしかない私たちを、ご自身の兄弟と呼ぶのを恥としないのとは正反対です。 先日新聞で中三の生徒の読書感想文を読みました。フランクルの『夜と霧』です。その生徒はこう記します。「私の今までの努力は、自己実現を達成し、私の幸せを手に入れるためのものであった。しかしフランクルの言葉との邂逅は、私が使命を追求し、誰かを幸せにするために尽力する生き方こそが心を満たす者だと気付かせてくれた」。大人顔負けの文章です。私たち大人は、父なる神から何を考えるのか。 この後、父親は言った。「子よ」、兄はこう呼びかけられて、どう思ったのでしょう。父は慈しみを以て、父と子の関係、兄と弟の関係を確認します。「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。兄に代わり読者が応答します。 この譬え話では兄も弟も父に反抗しています。これに対して兄にも弟にも、父は父であることを一歩も譲りません。ここに神様が父であることの厳しさ、権威、また意義があるようです。母なる神とは言わずに父なる神。どう思われますか。まず母性と父性の一般論としてですが、人は全て母から生まれ育ちも母に依存して母に反抗出来ない。その点、父親とは距離があり、子は父親に反抗するもの。父子断絶を経て子は主体的存在として成長すると言えます。実際には母親にも厳しさがあり、父親に甘えて良い要素もありますが、そしていわば対等な大人と大人の関係になっていきます。 神様と私たちは、もちろん対等にはなってはいけませんが、我々自身の罪によって断絶があり、神様の側からの試みも経て、神の慈しみによって支えられながら、自分のことしか考えない者から、甘えずに他者の救いを考える大人の信仰者として成長する。この成長への促しは、父性にある……。
主イエスが(他の人ではなく)この譬え話の語り手です。神の独り子、主イエスだからこそ、神様を「父よ」と呼ぶことへと祈りの道を私たちに拓いて下さいました。父なる神様を信じることの出来る幸いを思います。
私たちは主の祈りを毎日祈ります。「天にまします我らの父よ」 と祈る度に、瞬間的にこの放蕩息子の譬え話を思い起こしたい。我らの父よという呼びかけを思いを込めて受けとめ祈りたい。その時、主の祈りの「我ら」も、神を父とする御子キリストと自分の我らであり、神を共に父と呼ぶようにされた兄と弟の我ら、すなわち世界中の人たちであり、この恵みを自覚して受けとめている教会の私たちです。相手のために相互のために共に歩む我らであります。