申命記一〇・一二~一九
ヤコブ 二・一四~一九
今日のヤコブ書の私たちへの問いかけです。私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことが出来るでしょうか(二・一四)。
信仰が役に立つ、その信仰についてヤコブはこう説明します。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなた方の誰かが、彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう(二・一五~一六)。この例えから、誰に信仰が役に立つのかと考えますと、信仰者本人というよりも他者です。着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている相手の人に、あなた方の信仰が役に立っているか。信仰者自身に信仰が役に立っているかの問いではありません。
私たちは自分の救いのために信仰がある、と考えますね。これは間違いではありません。信仰を通してキリストの恵みを思い起こし、キリストがこの自分を救い取って下さると確信することが出来る。信仰を持っているお蔭でこの苦難を受け止め乗り越えることが出来た。信仰があるから医者から病の状況を告知されても意外と冷静に受け止めることが出来た。信仰の故に天国の確信は揺るがない、等々。こう思えるのは信仰故の恵みと言って良いでしょう。
その上でヤコブの問いかけを受け止め直してみましょう。あなたの信仰があなたの隣人に役立っていますか。ここで思い起こすのは、主イエスが善いサマリア人の譬えでこうお問いになった事です。「この三人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ一〇・三六)。主イエスが私たちみんなの隣人になって下さいました。そして「行って、あなたも同じようにしなさい」と私たちにも隣人になるようにとお招きになりました。隣人になる信仰、ヤコブにすれば、それが「役に立つ信仰」です。
役に立つ。この言葉は価値を問う表現です。どれだけ役に立つ行いが出来たか。能動的な行いによって造り出した価値、それによって自分の存在意義を量ることはよくあることです。しかし何も出来なくなってその指標では自分を量れなくなることがあります。ある患者さんが言われたことを思い起こします。「自分は今まで、会社にも家族にも役に立って生きて来た。でも今は、この病気になり、役立つどころか、世話になり迷惑の掛けっ放しだ。これでは生きている価値がない」と。
ここで、もう一つの指標を思い起こさなければなりません。それは尊厳です。尊厳とは、そのままに愛されているという受け身の指標です。
申命記は神の愛をこう語っています。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない(数が多ければ、生産人口の経済力や、兵隊の数による軍事力がある、価値ある民ということになります)。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。であるのに、価値のない民をご自分の宝の民とされたのは、ただ、あなたに対する主の愛の故に、救い出されたのである(七・六~八)。神様が、イスラエルの民に心惹かれて無条件で彼らを選び給う彼らへの愛。これが彼らに与えられた尊厳です。
そのままで愛されているということはしかし、そのままでいいんだよ、ということにはなりません。申命記は信仰の行いへの展開を語ります。
まず、尊厳を語ります。見よ(特に注意を促しています)、天とその天の天も、地と地にある全てのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちを全ての民の中から選んで、今日のようにして下さった(一〇・一四~一五)。
そして続けて、心の包皮を切り捨てよ。二度と頑なになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる、と神様の行いに触れて、それを根拠にだから、あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった(一〇・一六~一九)と信仰者の行いを語ります。この行いは、神が寄留者であったあなた方を愛したのだから、あなた方も寄留者を愛しなさいというものです。神の愛の行いが先です。
ヤコブ書に戻りまして、信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです(ヤコブ二・一七)と言って、行いを伴う信仰を「役立つ信仰」に加え「生きた信仰」と言い換えているようです。ヤコブは、行いを伴う役に立つ生きた信仰を語ります。それでヤコブの主張を聞いた人の中から、こんな反応が出て来たようです。「あなたには信仰があり、私には行いがある」 と言う人がいるかもしれません(二・一八)。この言い方は、逆だと分かりやすいのにと思う箇所です。「ヤコブよ、あなたには行為があり、反論する私には信仰がある」と。でもここで言いたい反論は「行いを伴う信仰なんて一人で両方を担わなくても、それぞれで良いのではないか。ある人には信仰があり、また他のある人には行いがある」と理解しましょう。
ヤコブは再反論して、行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう(二・一八)。ヤコブはやはり、行いが伴うことを強調し、更に皮肉たっぷりに、あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。福音書では、主イエスが神の御子であることをまず見抜いたのは、弟子たちではなく悪霊でしたね。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(マルコ一・二四) とか、悪霊もわめき立て「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った(ルカ四・四一)とか。ヤコブにすれば悪霊だって主イエスを信じている。だから信仰だけでは駄目だと言っている訳です。
整理してみますと、信仰の行い、これは、自分が神に愛されている信仰に基づいて、神の愛に揺り動かされてする、他者のための行いです。その他者が教会員同士なら相互牧会の兄弟愛、教会員以外の方たちなら隣人愛です。兄弟姉妹に対しても隣人に対しても「神様が愛しておられるあなたなのですよ」という信仰が形になって行いになります。外見的には行いですが、その行いに込められた信仰があります。相手の人が信じていなくても、神様はあなたを愛している。主イエスが十字架にまでかかって、あなたの罪を贖い取り、罪を思い起こさないことにして下さった。その信仰を込めて語りかけたり関わったりします。
ヤコブは、行いによって信仰を見せましょうと語ります。単純に、行いを見せましょう、とは言っていない。行いを求めているようでいて、実は信仰を求めています。こちら側の行いを通して相手の方に、私たちの信じる神様の愛が伝わるとすれば、大成功ですね。単なる行いを超えています。そして隣人愛は、ヒューマニズムの人間愛をも超えています。こちら側の人間の親切心ではなく神様の愛が伝わるのですから。その行いによって私たちは信仰に生きよう。それが生きた信仰であり、信仰者の生き方だ、と語っている訳です。 祈り
父なる神様、私たちの信仰が、多少なりとも日頃の思いや言葉や行いに形となって現れて、今の自分の生き方になっている、と改めて示されました。信仰者として生きる者とされておりますことを感謝します。もっとも完全に出来ている訳ではありません。むしろ、不信仰が心の中にも表にも現れてしまう、そのような私たちを憐れんで下さい。御言葉に養われながら、信仰をより確かな者として下さい。
神様どうか、教会を整え、また一同集いまして礼拝をささげることが出来るようにして下さい。そうでないと、行いどころか信仰が崩れてしまいかねません。聖霊のお支えが日々あると信じていますが、やはり聖霊の導きを受けとるのに一番整えられているのは一同集う礼拝です。感染症が収まらない現状を憐れんで下さい。困難な中ですが、お互い思い合って共に生きる社会を形造って行くことが出来ますように。
主イエス・キリストの御名により祈ります。