日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2025年3月16日 説教:森田恭一郎牧師

「この人は 私に良いこと してくれた」

マタイ二六・六~一三

この日、一人の女の人が、イエス様に近寄ってきました。イエス様はこの女の人を包み込んで、とても喜んで下さいました。この女の人も、イエス様の目の前で深い喜びに溢れました。

この日、この人は、食事の席に着いておられたイエス様に近寄ってきました。壺に入った香油を持っています。香油は、ほんの少しだけつければとても良い香りがします。香油は女の人にとっては宝物です。だから大切に使います。ところが、この女の人は、イエス様の頭にドボドボと注ぎかけました。もう食事どころではありません。    (聖句カードの左側にいる弟子を見て下さい)「あっ、何てひどいことを」。これを見た弟子たちはびっくりです。せっかくの香油の香りがきつい臭いとなって鼻をつきます。

イエス様の頭も首筋にも流れてベトベトです。イエス様だってとても食事どころではありません。この時の(聖句カードでは向こうを向いている)イエス様はどんなお顔、表情をしているでしょう。
きっと「なぜ、そんなことするんだ」ってお怒りですかね。
それにしても、なぜ?と私たちも思います。女の人の気持ちを考えると……。(聖句カードの女の人、いたずらしたり意地悪したりしているような顔ですか? 心を込めるような誠実な表情ですよ)。きっと、この女の人は、これまでイエス様から大切にしてもらった経験があったのでしょう。それで精一杯、イエス様の愛にお応えたいしたいと思いました。それも精一杯、出来る限りのことをして差し上げたいと思いました。それで大切な宝物をイエス様におささげしました。       でも女の人の気持ちを分かってあげた弟子たちはいませんでした。また、その香油は高価な香油です。弟子たちは「もったない」と思いました。それで言いました。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って貧しい人々に施すことができたのに」。女の人は 弟子たちから叱られ責められて、反論も出来ず居たたまれなくなりました。

この時、イエス様のお声が響き渡ります。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」。香油をドボドボと注ぎかけたのが良いことだって! イエス様はお怒りにならずお喜びになり、この女の人のしたことを受けとめました。この女の人はまた、イエスさまに大切にしてもらい、その愛に包み込んでもらいました。
そして主イエスが次に言われたのが「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」。貧しい人々はどうでもいい、というのではありません。イエス様は、今、ご自分の前にいる人に思いを向けます。今、目の前にいるのはこの女の人です。それでこの女の人を包み、喜び、愛します。だからもし、貧しい人や他の人がイエス様の前にいれば、主イエスはその人を大切にします。また女の人もここにイエス様がおられると知って、イエス様の所にやって来ました。彼女にとっても目の前に一緒にいて下さるのはイエス様。だからイエスさまに一生懸命応えます。イエス様の前に進み出て、精一杯、できる限りのこととして香油を注ぎかける。それが彼女の主イエスに対する礼拝になりました。

更に、イエス様は女の人が思った以上のことをお語りになりました。「この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」。当時、人が亡くなるとその体に香油を塗って葬りの式に備えました。イエスさまは二日後にせまる人間の罪を負う十字架で亡くなられることを見通しています。それで「葬りの準備」です。

それだけではありません。 「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。イエス様は、香油を注ぐ行為を、十字架を指し示す行為、十字架を福音として受けとめる信仰の告白の行為にして下さいました。だからこの女の人がしたことは良いことだったのです。本人が思った以上に良いこととして受けとめて下さったのはイエス様です。十字架はイエス様が亡くなられただけのことではありません。全ての人の罪を代わりに背負う福音の出来事です。この女人は、まさかその様なことまで思わなかったことでしょう。礼拝では、私たちには思いもよらない程のイエス様の愛が示されるのですね。

十字架を福音だと信じて行うこと、私たちにとってそれは何でしょうか。例えば、もし喧嘩するようなことがあっても、君もイエス様が罪を負って愛を以て包んでもらっている人なんだ、と信じて仲直りすることです。そしてイエス様の前に近寄って、深い喜びを以て、有り難うと礼拝をささげることです。

カテゴリー

過去の説教