日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年1月1日 説教:森田恭一郎牧師

「おめでとう、神の愛こそ主の栄光」

創世記一五・五~七
マタイ 二・一~一二

クリスマスのあの羊飼いのように、またあの三人の学者たちのように、新たな年も、御言葉を戴いて主キリストへと導かれたいと願います。皆様、新年、明けましておめでとうございます。

「おめでとう」の言葉を聖書から思い起こしますと、マリアに対して天使ガブリエルが語った受胎告知の呼びかけの言葉を思い起こします。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ一・二八)。何がおめでたいのかというと、受胎告知ですから、身ごもって男の子を産むこととまず思いますが、この聖句そのものから見ますと、恵まれた方だからおめでとう、どう恵まれたのかというと主があなたと共におられるから、ということになります。

「主があなたと共におられる」。これはマタイ福音書でも一章で、主イエスのご降誕をイザヤ書の預言「インマヌエル=神は我々と共におられる」の成就として語り、二八章で復活の主イエスのお言葉「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」の宣言を以て、マタイ福音書の枠組みとなっている言葉です。おめでとう、それはルカでも、主が共におられるからおめでとう、なのです。

 

もう一つ、おめでとうの用語について説明しますと、直訳すると、喜べ、という言葉です。今日はこの喜びを主題に語ります。東方から来た三人の学者たちの今日の聖書個所では、この喜びが、学者たちはその星を見て喜びにあふれた(マタイ二・一〇)という仕方で記されます。彼らもこの時、おめでとうだった、と言えます。

学者たちは東方で星を見て、はるばるカナンの地まで旅してきます。東方というのは、昔、アブラハムが旅だったウルの地方と重なります。同じ道のりを通って、学者たちはエルサレムまでやって来ます。そして尋ねます。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ二・二)。彼らの長旅の目標は、拝むことです。それにしても、占星術(星占い)の学者が星を拝まないで、なぜユダヤ人の王を拝みに出かけて来たのだろう。その答えは、星という自然崇拝では、人生を導き、生きていく確かな根拠とはならないと彼らも気付いたからではないか。

 

アブラハムも東方のウルから旅立った人ですが、そこでは月を神として拝む自然宗教の地域であった。父テラも息子アブ(ラ)ハムも、月を拝む自然崇拝では本当に人生を導くことはないと薄々感じ取っていた。そこである時、旅立った。そしてある時、満天の星空の下に連れ出されます。そして分かった。そして示された。「あなたの子孫はこのようになる」(創世記一五・五)。ここで良く味わって欲しい。ここでアブラムは、星を見て分かったのではありません。主なる神様から、その言葉を聞かせられて、それで信じました。御言葉を聞きながら満天の星空を見る。星空は、このようになる、と御言葉のしるしになっているだけです。

 

マタイ福音書に戻りまして、この二節の文章を読みますと、彼らはまず星を見て、星からユダヤ人の王が生まれたことを知ったように読めますが、別の可能性もあります。仮説ですが、彼らは東方のアッシリア帝国によって連れて行かれた北イスラエル王国の末裔かも知れない。あるいは南王国ユダの人たちがこれも東方になるバビロニアに連れて行かれたその地方から、イスラエルの人たちの神について何かしら聞いていた異邦人の子孫かもしれない。いずれにしても、救い主が王として来られるらしい、そのことを東方の地で漠然と聞いていた、その可能性があります。

そのような中で占星術をしながら、先に聞いていたイスラエルの信仰の言葉を繰り返し反芻している。後から、そのしるしとしての星を見た。占星術のことを、アストロロジーと言うそうです。ロジーはロゴス、言葉です。アストロロジーは星の言葉です。因みに天文学はアストロノミーでノミーはノモスで法則。こちらは自然法則。

占星術の学者たちは天体観測から、法則を超える星の言葉を探し求めた。でも星占いでは、人生を導く本当の確かな言葉は出てこないことに気付いていた。その彼らがイスラエル信仰の言葉を何らかの仕方で聞いて、真理を知りたい。本当の人生の導き手、救い主が来られるなら是非会いたい、と思った。そこで学者たちは、星を見たのですが、それはもう天体や星々の自然崇拝ではない、本当に拝むべき真の神を求めて旅立った。アブラハムと同じ、言葉が先にあって星が後です。

彼らは、エルサレムに来て大事な経験をします。それは、ちゃんと御言葉を聞くということです。旧約聖書ミカ書五章の言葉です。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さい者ではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである」。

 

この御言葉を携えながら、星に導かれてベツレヘムに向かいます。そして、学者たちはその星を見て喜びにあふれたのでしたね。けれども、星を見たから喜んだというなら、彼らは既に東の方にいた時点で星を見ていた訳ですから、今更喜ばなくてもいいはず。でもこの時点で改めて喜んだ理由は、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった(マタイ二・九)から。この時の喜びの内容は、エルサレムで教えてもらった聖書の預言通りの幼子がここにおられる、ということです。聖書の言葉だけなら、それだけのことです。幼子が生まれた出来事だけなら、どこの幼子とも変わらない。

でもここで聖書の言葉と幼子がここにいるということが結びついて、聖書の言葉が本当だという経験をします。同時にここに幼子がいるということが、聖書の言葉によって、ただの幼子ではなくイスラエルの牧者となるお方だ、神が我らと共におられるのだ、ということが分かります。エルサレムで聖書の御言葉を教えてもらった経験がここで活きます。実を結びます。聖書の言葉と幼子の出来事が、星の導きによって結びつきます。それで学者たちはその星を見て喜びにあふれた。そして真の神を拝んだ。そして帰りは別の道、ただヘロデの所に帰るなというだけでない、人生の別の道を歩み始めた、と言うべきです。

 

先ほど占星術の星の言葉と天文学の星の法則について触れました。先日、テレビで経済学者がこんなことを言っておりました。「我々は経済法則の合理性に基づいてこれから経済がどうなるか、どう対処すべきかを考える。その点から考えれば、今回のウクライナへのロシア軍の侵攻はあり得ないことだ。そんなことしたら良いことなんかない。経済法則の合理性から考えれば、まさか、そんなことにはならない、と思えた。ところが実際は、その『まさか』そんなことが起こった。政治や社会は法則通りには行かない」。こんな話でした。自然世界は法則通りです。でも歴史は合理的な法則通りにはならない。自然に成ることはない。歴史を形作っていくのには、それを導く確かな言葉、思想が不可欠です。だから自然崇拝では歴史は作れません。みんなを大切にする社会は作れません。

 

東方の学者たちは、自然崇拝の占星術ではなく、神の言葉によって人生を、社会を造り上げていく別の道を歩み出した。

私たちの場合はどうだろうか。これまでの歩みを振り返って「自分も導かれてきた」と思うことはないだろうか。それを自覚したとき、聖書の言葉によって自分の人生の方向性を見出すのではないだろうか。もちろん私たちは弱さを抱えています。だから、その通りにならない自分をも抱えています。辛いことです。クリスマスの晩、羊飼いたちを巡りてらした主の栄光は、人間の罪を明らかにすると言う点では怖いです。でも、天使は、メシア=救い主がお生まれになったことを告げた。罪を贖う救い主、私たちは罪赦されねば成りません。罪のない人は一人もいないからです。私たちが、自分の弱さや至らなさや罪深さ、それらに気付いたらその都度、出来る範囲で軌道修正しながら別の道を歩んでいく訳です。

その気付きの場所が、真の神を拝む礼拝の場であり、聖餐の恵みの場です。繰り返し、この場が備えられる。今年も、この場に招かれています。この場を共有するなら、そこから、赦し赦される共同体が形成されていくに違いありません。この赦しの中で、相手の弱さをそっと指摘し、また自分の弱さを認め、時には晒しながら受けとめてもらう、そのようにお互いを包み込みながら、相互牧会の共同体が形作られていくと信じます。

この時、私たちは羊飼いや学者たちのように、キリストへと導かれつつ歩んでいるのです。

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