列王記上一八・四一~四六
ヤコブ 五・一五~一八
ヤコブ書は語ります。あなた方の中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌をうたいなさい。あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい(ヤコブ五・一三~一四)。先週はこの聖句から、長老を招き祈ってもらう「執り成しの祈りの共同体」を語りました。ヤコブ書は、皆さんが祈ってもらうために長老を招く事、長老は招かれて祈る事を命じているのでした。
今日も主題は祈りです。ヤコブ書は私たちに力強く勧めます。そして旧約に登場するエリヤを引用します。エリヤは、私たちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈った所、天から雨が降り、地は実を実らせました。この個所は、列王記上一七章一節と一八章四一節以下の記事です。エリヤはイスラエルの真の神を神としないイスラエルの王アハブや偽預言者たちと闘った預言者です。それで今日は、エリヤの祈りを味わいたいと思います。
今日はまず、一七章八節以下(五六一頁)に登場するサレプタのやもめの記事を読みます。この婦人は、エリヤに自分の窮状を語ります。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中に僅かな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(一二節)。死ぬのを待つばかりという実に悲惨な運命の現実、何故、ここに至ったかは聖書は語っていません。分かることは、サレプタの地名から彼女が異邦人であること、夫を失い子を連れながら、干ばつの中で食べ物も底を尽いたという事です。自分の人生はここまで、という現実を語っています。これが彼女の生きて来た人生の物語になります。
人は誰でも、思いがけない仕方で人生の終局や中断を経験することがあります。自然災害を被り、事件や事故に巻き込まれ、あるいは病気に罹る。今の感染症もそう。当初、日本ではあのクルーズ船から始まった感染症拡大。罹患し亡くなっていった人やその家族、こんなことになるなんて、誰が予想し得たでしょうか。偶発的な出来事に巻き込まれて、人生が中断、あるいは終わりを迎えることになる。その他の病気でも、時に通常の生活や人生設計を中断させるという意味では同じです。
この現実に、私たちは驚き、戸惑い、心傷つき、生きる気力を失いかけたりします。
このサレプタのやもめも同じです。ただ彼女は自分の状況をエリヤに語ることが出来ました。最後のご飯を作ってそれを食べてしまえば、死ぬのを待つばかりです。これは自ら命を絶つ、親子で無理心中すると言っているのではありません。現実を見据えて自ら物語っている訳です。
私たちも、病気になった時に、誰かに話すことが実は大事です。「こんな症状が出て来て医者に行って診察を受けたら、○○という診断が出て、こんな治療を受けることになって、今はこういう生活になった。あなたも気を付けてね」。
これを語るということは、最初のショックの中、混沌の中から、今自分がどういう生活をし、場合によっては今の内に何をしなければならないか、生きる方向を見出させ、今生きる力を回復させます。また、語る相手に対して、あなたも気を付けてねと言いながら、病の自分の経験を役立たせることになります。一方、その人の話を聞くということは、相手の人生の物語を受け止め、その経験を意味付けることになる訳です。語り聴く内容は辛いことだけれども、聴いてもらえる、語ってもらえる、その相互関係は、幸いなことです。
病や災害などで困難な状況になって、それを自分の物語として語らないで抱え込むと鬱的になったり、自ら命を絶つことになりかねません。これを言葉にして語る事、聴いてもらう事が大事です。
エリヤはこの婦人を、この相互関係の中に招き入れました。それで、彼女は「あなたの神、主は生きておられます」と言って、祈りの世界を感じながら、エリヤに自分の現状を語り始めました。エリヤに語りながら、自分の神様に「自分はこうなってしまいました」と聴いてもらえる、祈りの関係になっているのではないでしょうか。エリヤはそれに応えて、自分たちを養って下さる神様の約束を語り、その言葉の通りになるのでした。
しかし新たな人生の中断の出来事が起こりました。その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った(列王記上一七・一七)。息子の死と併せて出来た問題がありました。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたは私にどんな関わりがあるのでしょうか。あなたは私に罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」。
彼女は看病のかいもなく死んでしまった息子を懐に抱きながら、これは自分のせいだ、至らぬ母だったと自分の罪を思い起し、罪を告白します。
エリヤは祈りました。エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女の懐から息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。「主よ、我が神よ、あなたは、私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」。彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、我が神よ、この子の命を元に返して下さい」。主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。ここで聖書が私たちに求めているのは、息子が生き返った奇跡を信じる信仰よりも、母親の罪を赦す真の神への信仰です。それで、女はエリヤに言った。「今私は分かりました。あなたは真に神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」。ここでヤコブ書を思い起こしましょう。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます。だから、主に癒して戴くために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい(ヤコブ五・一五~一六)。
ここからやっとヤコブ書が引用するエリヤの祈りの箇所になります(列王記上一八・四一~)。もう三年半、雨が降っていない中で、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる」。アハブは飲み食いするために上って行き、エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝の間にうずめた。エリヤの祈りの姿は印象深いものです。外界の音に耳を塞いで、神様の御声にのみ耳を傾ける姿勢のようです。また、皆さんも同じではないでしょうか。思えば、自分の罪のことや自分の無力さを覚える時に祈る姿勢は、なる程、顔を膝にうずめるような姿勢をとっていることが多い。
そして「上って来て、海の方をよく見なさい」と彼は従者に言った。従者は上って来て、よく見てから、「何もありません」と答えた。祈っても聴かれないような思いになりそうです。変化は何もありません。でもエリヤは困難の中で、自分の無力さを身に浸みて味わいます。エリヤも私たちと同じような弱い人間です。でもエリヤから知ることは、何もないように思える中で、祈り続けたことです。エリヤは「もう一度」と命じ、それを七度繰り返した。ただ神により頼むしかない中で、諦めないで祈りつつ待ちます。七度も繰り返します。祈り続けます。そして、七度目に、従者は言った。「御覧ください。手のひら程の小さい雲が海のかなたから上って来ます」。この後、雨が降ってきます。ヤコブ書は天から雨がとわざわざ付け加えます。この現象自体は自然現象ですが、エリヤにもヤコブにとっても、神の御業、天におられる神の天からの御業です。初めは小さな雲です。この神の御業の小さなしるしを見落とさないで信じたい。神の御業を待ち望むことを可能にさせ、小さなしるしを見出させるのが祈りだと、信仰の確信をエリヤの記事もヤコブ書も語ります。
私たちは、エリヤとあの婦人のように語り合い聴き合い、罪を告白し合い、共に癒される、相互牧会の共同体です。私たちは、エリヤとあの従者が小さな雲を見出す神の救いのしるしを見出す信仰の友です。その小さな、しかし最も確かな救いのしるしは、イエス・キリストご自身です。主イエスは、誰からも救いの確かさを見出されないままに十字架に付けられました。でもインマヌエル。主イエス・キリストが我らと共にいて下さり、祈りを聞き取って下さいます、だから私たちは祈り続ける、執り成しの祈りの共同体です。
あなた方の中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌をうたいなさい。あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。