イザヤ四〇・ 七~八
マルコ一三・二八~三六
人の子が戸口に近づいている(マルコ一三・二九)。人の子というのはイエス様のこと、イエス様が戸口に近づいておられます。イエス様が戸口に立たれた時に戸を開けてちゃんとお迎え出来るようにしておきましょう、それが今日の主題です。
イエス様が戸口に近づいている。それは大きく分けて三種類の時があります。一つ目は、クリスマスの時。遠く天上の世界から地上に降りて来られ、マリアのお腹に宿り、御降誕なさいました。
皆さんがよく知っている宿屋さん。ヨセフとお腹にイエス様を宿しているマリアが、宿屋の戸口に立ちました。「コンコンコン、宿屋さん、今晩、一晩泊めて下さい」。そうしたら宿屋さん、「困った、困った、どうしましょう。うちの宿屋は一杯ですよ」。この時、宿屋さんは扉を開けたのでしょうか? 福音書が記す通り、宿屋には彼らの泊まる場所がなかった(ルカ二・七)のでした。
イエス様が戸口に近づいている。その二つ目は、今のこの礼拝の時。この礼拝の時には、イエス様が、お姿は見えませんが、すぐ近くに、いやここにおられます。礼拝の時の戸口って、教会の扉のこと? もちろん開けています。イエス様、どうぞ私たちの教会の礼拝にもおいでになって下さい。そして皆さんもおいで下さい。この祈りを込めて会堂の扉を開けます。そして大事なことは、この礼拝の時の扉は、皆さんのお心の扉です。
皆さん、自分の心には扉があるんですよ……。
仲の良いお友だちとは、一緒に遊ぼ、もっと一緒にいてお話ししよう。この時には皆さんのお心の扉は開いていますか? 開けていますね。お友だちと喧嘩している時は? 多分、閉めています。
それなら、イエス様には? この礼拝の時、イエス様は皆さんのお心の戸口の所までやって来られて、トントントン、開けてくれますか? ある時イエス様はこうおっしゃいました。見よ、私は戸口に立って叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば……(ヨハネ黙示録三・二〇)。ここにいる教会員の皆さんは「イエス様は私の救い主です」と信仰の告白をして心の扉を開けて、イエス様のお名前で洗礼を受けました。そしてイエス様は続けておっしゃいました。私は中に入ってその者と一緒に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。それで、教会の礼拝には聖餐というイエス様と一緒のお食事の時があります。
イエス様が戸口に近づいている。その三つ目は、歴史の終末、終わりの時、完成の時です。ただ、その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである(中略)。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ(マルコ一三・三二~三四)。
保育園に通っているお子さんは分かると思います。段々暗くなる夕方。お母さん、お父さん、いつお迎えに来てくれるかな。もう真っ暗になって、何となく心配になってきます。やっとお母さんが迎えに来てくれて、走り寄って行くと抱っこしてもらえます。あるいは、お家で留守番したことのある人、分かると思います。まだかな、お母さん帰ってくるの、いつかな。待ち遠しいです。お母さんが帰ってくると「ただいま、おりこうさん、してた?」と喜んで声をかけてくれます。
別の聖書の所で、主人の帰って来た時の言葉が載っています。忠実な良い僕だ。主人と一緒に喜んでくれ(マタイ二五・二一)。僕たち、主人の帰ってくるまでの務めの間、どんなに苦労があっても、この主人の言葉を思い続けるなら安心です。
清教学園に植田真一先生の筆による聖句が刻まれた石碑があります。「草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉はとこしえに残る」。そして「その信仰に立つならば、どんな時代が来ても安泰であると思う」と記されました。植田先生の仕事や人生にも心配で不安の時が沢山あったのでしょう。だから、この信仰がなかったら安泰(安心)でない、でも「この信仰に立つならば」と言われる訳です。 主の言葉は枯れたり散ったりしない。とこしえに残る。イエス様が「一緒に喜んでくれ」と語られ、 私の言葉は決して滅びない(マルコ一三・三一)のですから、安心して心の扉を開けて私を迎えなさい、と呼びかけおられる訳です。私たちは地上で先に扉を開けますが全ての人に(マルコ一三・三七)とあって、終末に向け全ての人をお招きです。