日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年12月26日 説教:森田恭一郎牧師

「いかに美しいことか」

出エジプト記二・一-一〇
ヘブライ  二・二三-二六

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰の故に神に認められました」(ヘブライ一一・一)それでヘブライ書一一章では、昔の旧約時代の信仰者たちの信仰によって生きる姿をその聖句から黙想し、描き出しています。

今日の旧約聖書の登場人物は、乳飲み子であったモーセの親と、成人したモーセです。

モーセの時代のエジプト王ファラオは、ヘブライ人の男の子が生まれたら生かしておかないようにと命令を出していました。それで、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました殺されるままにしないで隠しました。その理由は親なら当然だからということかもしれません。でも王の命令に背いたら、親の命だって危ない。殺されるかもしれない。何故、王の命令さえも恐れなかったのか。そのポイントをヘブライ書はこう語ります。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです(ヘブライ一一・二三)。

 

その子の美しさ、これを元の出エジプト記ではその子がかわいかったのを見て(出エジプト記二・二)と記します。自然な親心を表現しているようにも思えます。この場合、その親心が王の命令を恐れなかったということになります。これをヘブライ書は「美しかった」と表現します。この表現の仕方に、ヘブライ書の記者が出エジプト記のこの聖句を黙想して導かれた、王の命令を恐れなかった理由が表現されているようです。ただかわいかったという親心というだけではなく、そこに信仰の視点があったということです。これを「美しかった」と表現しています。

いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は(イザヤ五二・七)。良い知らせ(すなわち福音)を伝える者の足に美しさを見出しています。信仰の視点から見る美しさです。

モーセの親は、この乳飲み子の存在とこれから歩み出す人生に、この美しさを見出したのだ、とヘブライ書は導かれました。この美しさ、イザヤ書では良い知らせを伝える足ですが、モーセの親もそれを見出したとも言えるし、もっと広い表現で言いますと、神のご計画をこの子に見出した、と言えるでしょう。その内容は、まだ分からない。けれども、神のご計画がこの子にある。

そう言えば、乳飲み子を見ながら誰もが言うのではないでしょうか。「この子、大きくなったらどんな子になるのでしょうね」。そして私たち信仰者がこれを語るとき、信仰の思いを込めている「この子に神様はどんなご計画をお持ちなのでしょうね。この子をどのようにお用いになるのでしょうね。楽しみですね」。そのご計画は私たちにはまだ見えない。見えないけれども神のご計画を確信しています。

ヘブライ書は、モーセの親がかわいいモーセに神様のご計画を確信した、その美しさを見出したと親の信仰を見たのです。だから、王の命令さえをも恐れない。

 

モーセはその後、その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中から私が引き上げた(マーシャー)のですから」(出エジプト記二・一〇)。そのモーセが成人した時、今度はモーセ自身の信仰がポイントになります。ヘブライ書はこう記します。信仰によって、モーセは成人した時、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選びキリストの故に受ける嘲(あざけ)りをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです(ヘブライ二。二四~二六)。

モーセ本人が、自分自身に与えられている神のご計画を考えた。信仰のアイデンティティーを考えた。「神様はこの私にどのようなご計画をお持ちなのだろう。このままエジプトの王女の子でいていいのか。信仰の民の一員ではないか」。その結果、神の民と共に虐待されるかも知れない、嘲りを被るかも知れない。でもそれらはエジプトの財宝よりまさる富だと考えた。この富、豊かさとも訳される言葉です。

パウロはこの用語をこう用いています。あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです(Ⅱコリント九・九)。この聖句は、クリスマスの神秘を語っている。神が人となられるクリスマスは、キリストにとっては貧しくなることであった。そのことによって、私たちが豊かになる。神であられるキリストが人となられて十字架に至る貧しさまで降りて来られた。そのお蔭で、それと引き換えに、私たちはキリストが共にいて下さるという豊かさが与えられる訳です。信仰者になったからと言って、苦難がなくなるとか、死ななくなるということではないでしょう。むしろそれが増すかも知れない。でも困難はキリストが共にいて下さる困難、死はキリストが共にいて下さる死になる。そういう豊かさを与えられる。

モーセはキリストをまだ知りませんでしたが、神の見えないご計画を信じた。そのことの報い、その恵みに目を向けた訳です。

 

今年最後の主日となりました。この年を振り返り、何を思い起こすのでしょうか。今年も感染症で自分の計画が思い通りにならなかったという方もおられるかもしれない。親しい者が入院してもお見舞いにも行けない。そのまま天に送ることになった方もおられるでしょう。感染症のあるなしに関わりなく、困難はあることです。大変な事件や事故のニュースも絶え間ない人間社会です。それは神様のせいではありません。貧しい人間が造り出す社会です。

そのような中で、自分の生き方を思い起こす時に、何を思うのか。私たち一人ひとりにとってもまた教会にとっても同じです。神のご計画に生きた。神に用いられて生きたのだ。神が共におられる中に歩んだのだということです。もちろん、そうではなかったと思い起こす面も併せてありますから、尚更、年を越すに当たり、何を携え、何に目を向けて新年を迎えるのかにしっかりと思いを向けたい。

それは自分に授けられている神のご計画です。新たな年神様は私たちに何を為さろうとご計画しておられるのでしょう。神様のご計画、なかなか見えないのですが、この見えない事実に目を向けるなら、自分も、相手も、社会も、本当は美しく見えてくるに違いありません。もとより罪深い人間でしかありません。罪赦され赦された者として信仰によって生きていきます。

今日、ヘブライ書が語る、モーセの親とモーセ自身から見えてくる信仰者の姿であります。

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