詩編一四五・八~九
マタイ二〇・一~一六
今日は、天の国=神の国のお話です。それは神様がご主人様の「ぶどう園」のようなものです。ご主人様は夜明けに労働者たちを求めて出かけます。それから午前中九時頃に出かけて行きます。正午頃にも、午後の三時頃にも、そして夕方五時頃にも、何回も人々を求めて出かけます。それでは幾つか問いを出しますので考えてみましょう。
第一問。ご主人様のぶどう園で夕方から一時間、働いた人が一デナリオンもらえました。だとしたら朝から十二時間働いたら幾らもらえることになりますか? 十二デナリオン!ですね。
ところがご主人様が払ったのは、一デナリオンでした。夜明けから(朝六時から日没の午後六時まで)丸一日十二時間働いた人も、午前中九時から九時間働いた人も、お昼から六時間働いた人も、三時から三時間働いた人も、そして夕方五時一時間しか働かなかった人もみんな、一デナリオンでした。皆さん、どう思いますか? より長く働いた人たちは不平不満タラタラです。どう考えても不公平!ですよね。でもこれが天の国=神の国!
第二問。それならご主人様がみんなに同じ一デナリオンを支払ったのは何故でしょう? ご主人様のお考えは、朝雇った時に 「あなたと一デナリオンの約束をしたではないか、不当なことはしていない」(マタイ二〇・二)。約束して下さったご主人様は真実な方です(ヘブライ一〇・二三参照)。そして他の人には気前良く払います。
第三問.ご主人様の気前の良さ(マタイ二〇・一五)。主人が気前良いのは何故でしょう? 普通、ぶどう園の主人は、労働者たちがちゃんと働いているか、そちらに目を向けます。でもこのご主人はどうやらそれだけではありません。何度も出かけて行き、何もしないで立っているだけの姿、その間の辛い気持ちに主人は目を留められます。
その人たちの辛い気持ちって? 「朝から待っているけれど自分に声をかけてくれる主人はいるかなぁ。正午になってもボクには声かけてくれる主人はいないなぁ」、夕方になってこう思ったのではないでしょうか。「誰も雇ってくれない(マタイ二〇・七)。もう今晩、家族が食べる夕食のパンもおかずも買って帰れないよ」。
こう考えると、朝から働いた人たちは、まる一日暑い中を辛抱して働いた(マタイ二〇・一二)のでした。なるほど、それは大変でした。でもこの人たちは、雇ってくれる主人はもう誰もいないかも、という不安は全くありません。
ご主人様は、夕方にも来てくれて 「ぶどう園に行きなさい」(マタイ二〇・四、七)と また声をかけます。有り難いお声がけです。
第四問。夕方から働いた人たちはどのような気持ちだったでしょう? なんでもっと早く声を掛けてくれなかったのですか、と怒りますか? そのようなことはありません。「この私に目を留め雇って下さるご主人様がいた」とそれはもう嬉しくて、きっと、一時間、一生懸命働いたでしょう。
主人の言葉をもう一回味わって聞いてみます。「ぶどう園に行きなさい」。「ぶどう園で働きなさい」ではない。 労働者はもちろん働いたでしょうが、主人にしてみれば、どれだけ働いたかよりも、自分のぶどう園に来て私と共にいてくれる、ということが嬉しい。それで、同じように支払ってやりたいと主人が喜ばしくて気前良く思う。
第五問.そうだとすると、皆さんが朝から働いた労働者としたら、一デナイオンもらった時に、何を感じ、何を考えますか? やっぱり、不公平だと不平不満タラタラですか……? そのようなことはありません。 ご主人様はあなた様のぶどう園にお招き下さり、約束通り一デナリオンを支払って下さった。この私に目を留め声をかけて下さった。本当に良かった、有り難う。
それなら、夜明けから働いた人は、夕方から働いてだけなのに一デナリオン受け取った人に対してはどう思いますか? きっと心から喜んで「あなたも本当に良かったね」と声かけ出来るのでは。 第六問。皆さんが労働者だったら、明日、何時からご主人の畑に行きたいですか? 「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主は全てのものに恵みを与え、造られた全てのものを憐れんで下さいます」(詩編一四五・八~九)。このご主人様の下にいたいですね。