創世記一八・三二
マタイ一八・二一~三五
ペトロが主イエスに問いかけました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。主イエスは応えて言われました。 「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ一八・二一~)。 主イエスは、徹底的に赦し抜くことをお語りになった後、天の国の譬えをお話になりました。
この譬え話、主君は膨大な借金を抱えている家来を赦しました。でもその家来が自分にちょっとだけ借金のある人を赦さなかった。その事の次第を仲間から聞いた主君は、『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか』。そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。この譬え話の結論は結局、彼を赦さなかった。誰も赦していない。主君が憐れんで下さって赦してもらった家来は、赦さなかった。これが問題と言えば問題で、それでそのことを聴いた主君は先の決定を取り消してこの家来を赦さなかった。
皆さんは、どう思われますか? 主君が最後も赦してあげれば良かったのに、と思われますか。それは出来ますか。この家来が憐れんでもらったのに自分に借金のある人を憐れまなかったという理不尽さ、不正義。やはり正義は貫徹しなければなりません。この譬えに登場するもう一つのグループ、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた仲間たち。彼らは正義を求めた。事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。主人は一回、憐れむことで家来の借金を帳消しにしてやった。でも家来の無慈悲を聴いて二回目は憐れまなかった。主人も正義を求め、正義を貫徹して赦さなかった。これは、七の七十倍までも赦しなさいと言われた主イエスの御心とは異なる結論です。
主イエスはこの譬え話をお語りになりながら悲しかったと思います。仲間を憐れまなかったあの家来のことが。主人から沢山の憐れみを戴いたのに……。そしてもう一つ、それは、主君に事の次第を報告した仲間たちです。皆さんがこの仲間たちだったら、やはり、主君に報告しますか……? 仲間たちの報告は筋が通っています。正義を貫徹しています。でも……。この仲間たちが採り得る他の方法はないのでしょうか。
今日はアブラハムの記事を読みました。ソドムとゴモラの町、その町の人々の罪が非常に重いとうことで町を滅ぼそうとなさる神様に、アブラハムが訴える記事です(創世記一八・一六~)。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」。正しい者を滅ぼすのは正義ではない、という訳です。でもそれは、この町に千人居たら残りの九百五十人は悪い者であっても裁かない、もしくは赦すことになります。主は言われた。 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」。
この後アブラハムは、正しい人が五十人いるかな、と心配になって、人数を減らしていきます。そして最後「十人しかいないかも知れません」と言うと、神様は「その十人のために私は滅ぼさない」と言って下さいました。話はそこで終わってしまいます。この記事を読みながら私たちは続けて考えてしまいます。九人だったら、八人だったら……、そして一人だったら。でも一人でもいてくれたら神様は「その一人のために私は滅ぼさない」と言って下さるであろうと私たちは。期待します。正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすのは不正義だからです。
しかし、ここまではいい。私たちは恐る恐る思う。一人もいなかったら……? 当然、滅ぼすのが筋、ということになるでしょう。だから私たちは神様に聞くことが出来ない。一人もいなかったら、滅ぼされることになりそうだからです。 ここに「祈れない日のために」(石井欽一著 一九八五年 教団出版局)という本からご紹介したい祈りの言葉があります。お聞き下さい。
神さま
赦すということはむずかしいです。
ある人の証しを聞きました。
「私は赦せました。
赦しに生きることが出来ます。
赦すことを知って、はじめて
感謝の生活が分かりました」と。
私も、本当に良かった。
そうだなと思いました。
しかし、私は赦せないのです。
赦してしまったら、
私の怒りの立場が
なくなってしまいます。
あの時、私が怒り、
憎しみを持ったのは、当然なのです。
誰が見ても聞いても、
私は間違ってはいないのです。
私が正しかったのです。
だから、神さま、
私が赦したら私の正義は
うそになってしまいます。
赦さない、赦せない、
それが全てをよくするのだと
思い続けてきました。
でも、イエスさまは
その全てを赦されたのですね。
それはよく分かっています。
(あと二行続きます。皆さんはどのような 言葉を以てこの祈りをお続けになりますか)。
でも、やっぱり、神さま、
赦すことはむずかしいです――。
やっぱり、難しいです。私たちには。主イエスのあの譬え話、社会的には正義は守らねばならない。返すものは返す。返せなかったら自己破産のような法的手続きを取って、何らかの形で決着をつける、それがないと落ち着かない。でないと正義が嘘になるから。けれども何か、信仰的に後味が悪い。主君に事の次第の報告をした仲間たちだって、あの家来が牢に入れられた結末を見て、これでスッとした、とはならないでしょう。あの家来が悪いのだ、仕方ないではないか、と思いつつも、後味が悪い。赦しが実現していないからです。
あの仲間たち、事の次第を報告したときに、こうは言えなかったのでしょうか。「主君様、彼を赦してやってくれませんか」。そう執り成すことは出来なかったのでしょうか。でも、先ほど祈りの言葉で言うと、やっぱり、神さま、赦すことはむずかしいです。そうなんです。信仰者の私たちにも難しい。でも信仰者に出来ることがある。憐れんで下さいと執り成しを祈り求めることです。執り成しには二つ。一つは、あの人のことを赦してやって下さい。もう一つは、あの人を赦せないでいる私を赦して下さい。
この譬え話をなさった主イエスは、こう思っておられた。赦しを願って執り成しの祈りをささげてごらん。二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる(マタイ一八・二〇)のだから。私は、人々の罪を十字架で背負い、裁きを担い、正義を貫徹しよう、そして赦しを与え「あなたの罪は赦された」と宣言しよう。その十字架への決意を以て、執り成しへと招いています。