日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年3月24日 説教:森田恭一郎牧師

「あなたたちは、神の羊の群れ」

エゼキエル書34章29~31節
ペテロの手紙一5章1~7節
今日は、Ⅰペトロ書から二つの事柄について学びます。一つ目、今日は礼拝後、教会総会を開催します。総会の一番大事な議事は長老選出です。そこで、長老について語る今日の箇所のみ言から、長老に選任されるとはどういうことか、長老を選任するとはどういうことか、その意味を味わいたいと思います。二つ目は、歴史の将来展望における今という点についてです。

まず第一点目、ペトロ書が語る長老は、今日の教会の長老と時代も全く異なり、制度上も同じではありません。今日では牧師と言われる教職も、ペトロ書の長老の概念に入るでしょう。牧師も長老の一人であり、その役割が牧師の場合には宣教長老として、み言を説き明かすことにあり、いわゆる長老は治会長老として、教会を治めることにあります。両者とも、長老会の構成員の一員であって立場は対等です。長老会の務めは、礼拝を整えることと、教会の一人ひとりを牧することです。両方合わせて、教会をキリストの体として建て上げて行きます。
長老の務めについて、ペトロ書は長老に勧めます。二節、あなた方に委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。そして三節、委ねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。五節には長老も含めて皆となっていますが、皆互いに謙遜を身に着けなさい。六節では、だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。
長老は権威を振り回してはいけません。でも権威を失くしてもいけません。その権威とは偉ぶることではなく、神様の権威を保つのです。創世記一章、創造の御業について神様が最初に為さったことは「光あれ」と言われたことでありました。このみ言に基づいて、光があって光と闇を分けられました。この光はしかし、天体の光、物理的な光ではありません。それは第四の日に造られました。第一の日に神様がお造りなったのは、光を有らしめて、光を光、闇を闇とする秩序です。初め地は混沌でした。そこにまず秩序をお造りになりました。その秩序は、被造物をお造りになることで、神は創造主、他は被造物、その秩序を形成しました。
今日のエゼキエル書にも「お前たちは私の群れ、私の牧草地の群れである。お前たちは人間であり、私はお前たちの神である」と主なる神は言われる(三四・三一)とあって、この秩序を語っています。この秩序を逆転させて、自らが神となろうとすることを聖書は罪と呼びます。

長老会の務めは、この秩序を保つことです。真の神を真の神としていく教会を建てて行く務めです。礼拝に於いて神が神として示され、会衆はこの神様に礼拝を捧げる。牧会に於いても、お一人おひとりが自分を神とする我儘な者にならずに神を誠実に礼拝する礼拝者になるように導く訳です。
それでペトロ書は、五節で教会員の在り方を語ります。長老に従いなさい。長老を選任するとはこういうことです。ここでは長老と対比するような意味合いで若い人たちと言っていますが、長老以外の人たち全ての人を指しているでしょう。従うと言っても上下道徳による忠孝ではありません。神を神とする秩序の故に従います。教会員も長老たちも共に皆互いに謙遜を身に着けなさい。神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。長老が一方的に偉いというのではありません。まず神の御前に、そして共に互いに謙遜になります。ですから、これも単なる道徳訓ではない。神を神とする謙遜。教会の礼拝と牧会でこそ身に着く謙遜です。

教会が行う世話(二節)とは、具体的には状況に応じて色々ある訳ですが、今、河内長野教会が取り組んでいるのは例えば、病床にある方へのお見舞い、礼拝に出席しやすくするために礼拝の送迎を整え、お体の不自由な方が座りやすいように椅子を用意する。婦人会で高齢者の事を思いつつ教会の福祉を考えようとしている、これも大事です。それは、ただお世話をすることではなく、お一人おひとりが、神を神として礼拝する環境とお心を整えて行くことに繋がる世話です。
長老が群れの模範になる(三節)というのも、ただ品行方正な道徳的な模範というよりは、一節に受難の証人とありますが「キリストの十字架によって罪贖われて救われたのです」と、キリストの救いの恵みに生きている証人になるということです。そしてキリストを崇める一人となっているという模範です。
先日、幼稚園の生活発表会で、子供たちが自分が将来大きくなったら何に成りたいか、一人ずつ語る場面がありました。その中で、あるお子さんが、クラスの担任の先生の名前を挙げて、〇〇先生のようになりたいと答えたのです。幼稚園の先生になりたい、ではなく…。何か考えさせられました。受洗試問会で、あなたはどのようなキリスト教徒に成りたいですか、憧れる人はどんな人ですかと問いかけて、あんな長老のように救いの恵みの中を生きる人になりたいですと答えてもらえたら、幸いですね。キリスト教は単なる教えではない。聖書の教えだけあっても駄目。生き方を以て聖書を解き明かす模範となる人がいることによって、キリスト教は歴史の中に存在していく。

次に第二点目。ペトロ書に、将来を指し示す言葉があります。一節やがて現れる、四節大牧者がお見えになる時、六節かの時には。私たちは日頃、すぐ結果が出るように今を生きている。例えば主婦の仕事、掃除をする、洗濯をする、料理をする、すぐ結果を出していく営みです。会社の仕事もそうでしょう。営業成績を上げねばならない。日々のその積み重ねがあって生きて行けるし、生きて来れた。だからそれはそれで大切なことです。でももしそれだけなら、その時が過ぎてしまうと、振り返って、その時その時一生懸命生きてきたが、結局自分のこれまでの人生は何だったのか、という事になりかねない。
旧約聖書を読んでいてふと思うことは、アブラハムからキリスト迄およそ千八百年、モーセからだと千三百年、ダビデからだと千年、その間に、僅か数十年の自分の人生があり、名も知られないままに歴史のかなたに埋もれて行くだけの各々のその人の人生がある。でもそれは、キリストに向かっている人生だった。本人たちはそのことを知らない。でも私たちは新約の視点から歴史の中の人生の位置づけが分かる。

今日の総会資料には、私たちの教会の将来展望を記しました。一六年後の創立一三〇周年を視野に置いての展望です。一六年後、今の長老が私も含めて長老としてどれだけいるだろうか。でも、教会をそこに繋ぐ役割を負っていく今を生きている訳です。
昨日、三陸鉄道がリアス線として全通しました。震災から八年かけての復旧でした。三陸鉄道の復興についての社長の言葉が新聞に紹介されていました。「そこまでして鉄路での復旧を選択したことは正しかったのだろうか。今、評価するのは難しいが、五十年、百年後に沿岸が地域として存続し、三陸鉄道がしっかり利用されているならば、鉄路復旧は間違っていなかったという事になる」。本社には社長室もない。「いかに収支を合わせるか。ウルトラCはない。仲間と共に地道な取り組みを積み上げ、一円でも多く稼ぐ。第三セクター鉄道として全国最良のリアス線がその武器になる」。本社の傍らに碑があって、現在を予測し激励するかのような一文が刻まれているそうです。後進よ、この業の上に更に三陸の未来を創建せよ。三陸鉄道の代わりに教会という言葉を入れて読んでもいい位です。もっとも教会には、もっと確かな約束があります。

聖書は、未来を創建していくことについて確かな約束をしている。エゼキエル書の聖句、そのとき、彼らは私が彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。イスラエルの民が、そして世界の人たちが、この神が真の神であられることを知るようになる、ここに向けて歴史が向かっていることを聖書は告げています。
以前にも読みましたエレミヤ書二九章、神様が捕囚の民に対して七十年後の帰還の約束をしています。この約束を聴いた殆どの人は、七十年後に生きてはいない。自分は帰還することなくこの捕囚の地で死んでいく。その限りでは、自分の人生には関係のない約束でしかない。ならば、そんな約束無くてもいいのか…。今の自分の人生は、七十年後に繋ぐ役割を担っている人生となる。そこに向けて歴史を造っていく人生となっている。この事を知って今を生きることとなります、。そしてペトロ書も、やがて現れる、大牧者がお見えになる時、かの時には、の三つの表現で同じことを語っている。
その視野の中で、神様の歴史のご計画の中に長老も信徒も役割を担って行きます。

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