出エジプト記12章13~14節
ヘブライ人への手紙5章7~10節
今日は、主の祈りの三番目の祈願「御心の天に成る如く、地にも為させ給え」を味わいます。
私は以前、この祈りとその前の「御国を来たらせ給え」の違いがよく分かりませんでした。御国が来たら、御心は地にも成る訳だし、御心が地にも成ったらそこに御国は来ていることになるのではないかと、同じように思えたのです。でも強調点が異なります。前回学びましたように、御国を来たらせ給えは、終末における御国の完成を信じてその希望を祈り求めるものです。強調の中心点は「完成」です。
それに対して、御心の天に成る如く地にもなさせ給えは、終末が来るまでの、それまでの間、私たちが日々生きている日常の生活や歴史に於いて、御心が少しでも実現しますように…、この祈りは、御心を求めて使命意識を以て、まだ未完成の地上を生きていく励ましの祈りです。前回の祈りにも、電車の話で言えば、電車に乗るためにホーム(=地上)で準備するという営みはあるのですが、もう電車がホームに入って来た所での準備であり、中心点は終末が「完成する」希望に強調があります。今回の祈りは、終末が来て御国が完成するまでの、それまでの間、「地にも」 と私たちが使命意識を以て生きる。今生きる地上性とその時間性に中心点があります。
マタイ福音書が伝えるこの祈りの言葉を直訳すると「あなたの御心が成れ、天に在る如く地の上にも」。御心=神のご意思を実現させるのは誰でしょうか。それは神様です。それを強調すると、漢字は成るの漢字で「地にも成らせ給え」という文章になります。そう祈っておられる方もいらっしゃると思います。
他方、一般に定着しているのは、行為の為の字を書いて「地にも為させ給え」。御心を行うのは人間の側になります。と言っても人間が神の意思を実現させることはもとより出来ないことです。神様が私たちを用いて、私たちを通して、ご自身の意思を実現させます。
どちらの言葉で祈るかはご自分でお決めになると良いでしょう。今日は、まだ未完成の地上を、御心を求めて使命意識を以て生きるとはどういうことか、そこに思いを深めていきます。
今日の祈りのこの言葉がそのまま使われている箇所は、主イエスのゲツセマネの祈りの言葉です。少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」(マタイ二六・三九)。一方に御子を十字架につける父なる神の御心と、他方、主イエスご自身の願いとがあり、正面からぶつかり合っている。神学用語になりますが、これをキリスト両意論(第六回コンスタンチノポリス公会議 六八〇年)と言います。
キリスト両性論というのはお聞きになられたと思います。神と人との両方の性質、神であられる御子が人となられて神性と人性の両方をお持ちである。主イエスは真の神、同時に真の人です。これがキリスト両性論。これを認めずに神性と人性を切り離してしまうと異端になります。例えば、十字架にかかったのは人であるイエスであって神様ではない、神であられるキリストはそのような苦しみはお受けにならなかったとか、逆に、イエスは最高の理想的な人間であられたが神様ではなかったとか、その神性と人性の両性を同時には認めずに、神か人の単性にしてしまうのは異端です。
キリスト両意論は、両性論の延長線上にあるものですが、神の御子キリストの意思と人間としてのイエスの意思と、主イエスは両方をお持ちであったという理解です。この二つの意思が、いつも一致していれば苦労はない訳ですが、主イエスの中に別々のものとして区別して認識しつつも、分離することなく一致させねばならない。その苦渋がゲツセマネの祈りで如実に表れる。「父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」。これは人間としての意思です。けれども「しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」。これは主イエスの神としての意思です。あるいは神の意思に人間としての意思を分離させないで一致させようとなさる祈りです。
このキリストの苦渋に満ちたお姿を、ヘブライ書はこう表現します。キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました(五・七以下)。聞き入れられたというのは、私の願い通りではなく、御心のままにが聞き入れられたということです。逆に言えば、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さいの願いは退けられたということです…。これをキリストは神様だから簡単に出来たのだろうか。そうではありません。そこでささげられたのは激しい叫び声をあげての願いであり、涙を流しながらの祈りです。キリストにとっても、実に苦渋に満ちた祈りと願いでありました。
そしてヘブライ書はそのキリストのお姿を更にこう表現します。キリストは御子であるにも関わらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。従順…。フィリピ書の言葉で言いますと、キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(二・六以下)。神であることに固執しない従順です。
従順とは、聴いて従う聴従のこと、信じて従う信従のことです。何を聴き、何を信じるのか、それは父なる神様の人間を救う神のご支配の意思です。そのためにはキリストは十字架にかからねばならない。十字架で人間の罪を代わりに背負い、罪の裁きとしての死を担わねばならない。そうやって罪を贖わなければならない。この神の意思を聴き、信じて、従う。人としてのイエスにしてみれば、例えば人間的に言うとこんな思いだったかも……。神の御子である私が、雲の上から「お前たち救われよ」と言って魔法の棒を一振りすれば、それで全ては救われる、それで良いではないか。そもそも、罪人が十字架にかかって罪を償うのなら筋が通るが、罪のない私が十字架にかかる、それがどうして、十字架にかからない罪人の救いになるのか。それでは救われる罪人たち、虫が良すぎるではないか。十字架の身体的苦痛だけではない。そんな不条理の杯、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。これが人間としてのイエスの願い。
しかし、父なる神様の御心はそうではなかった。出エジプトの出来事を思い起してみよ。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちの徴となる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。私がエジプトの国を撃つ時、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。あの時の小羊の血、あの血があったからイスラエルの民を私は過ぎ越して民を打たなかった。その小羊の血はお前の血を指し示しているのだ。十字架の血を以て、私は罪人を過ぎ越す。それが私の救いの計画、神の支配の在り方なのだ…。
聴従と言うにしても信従と言うにしても、従順とは、神様の示されたことを「そうなのだ」と受け入れることです。ご自分の思いを横に置き、神様の御心を自分に貫きます。主イエスは、十字架を以て罪人を救う父なる神様のご意思を、変えてはいけないこととして謙って受け入れました。
さて私たち。地上にあって御心の天になる如く従順であろうと天を仰ぐ。でも同時に、地上に想いを戻して、従順になれない自分の弱さに気付きます。だから一層私たちは、地にも為させ給えの祈りが不可欠です。この祈り無しに誰が自分の弱さ、罪深さの中で、従順であろうと天を仰げるだろうか……。そしてもう一つ、この御心に対する従順は、御心に沿わない真理でない地上に起こる様々な出来事の中で、これは違うと対外的に抵抗することです。この祈りのお蔭で真理を求めて生きる勇気を戴きます。
従順と抵抗、それにもう一つ付け加えることがあります。それは、御心に適うことと、御心に沿わないこと、その境界線を見分ける知恵を与えて下さいという祈りです。言葉にはなっていない隠れた祈りです。この見極めは、歴史に学び人生体験の中から、その都度その状況の中で判断するしかありません。どれが御心に沿うのか分からない、御心を見えなくする罪の力が未だ残る地上の現実にあって御心を示して下さいと祈らざるを得ません。従うべきですか、抵抗すべきですか、そう迷う時、御心を見極める知恵を与えて下さいと、御心を求めるこの祈りは不可欠な祈りになります。
私たちは地上にある限り苦渋する。キリストの叫びや涙ほどに激しく深くはなくても、それでも私たちなりに叫びをあげ涙を流していい。この祈りに支えられて、天を仰ぎ、地上を諦めません。