詩篇118篇22~25節
ペテロの手紙一2章4~8節
家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった(詩編)。この言葉の意味が、三つの段階を経て変化します。最初は元の詩編での石の意味合い、次にキリストとの関わりにおける石の意味合いに、そして私たちとの関わりにおける石の意味合いに。
一つ目は、元々記された詩編一一八篇二二節における意味合いです。この御言葉をその初めからそのままに味わってみます。まず一一八篇は、その初めと終わりにある恵み深い主に感謝せよ。慈しみは永久にの言葉で枠づけた、感謝の詩です。感謝した理由をその中間部分で語ります。
五節、苦難の狭間から主を呼び求めると、主は答えて私を解き放たれた。解き放たれたので感謝。一三節、激しく攻められて倒れそうになった私を主は助けて下さった。だから感謝。
一四節後半、主は私の救いとなって下さったから。
一八節、主は私を厳しく懲らしめられたが、死に渡すことは為さらなかったから。厳しく懲らしめられたというのは、詩編記者の個人的経験だけでなくバビロン捕囚のことかもしれません。
二一節後半、あなたは答え、救いを与えて下さったから、感謝せよ。慈しみは永久に。
そのように、解き放たれ、助けられ、生かされ、救われた、その救われ方がどのようなものであったか。もう駄目だと絶望していた事柄が、思いもかけない仕方でひっくり返って、救いが実現した。もう捨てられたと思っていたら、生かされ用いられた、そのように自分は救われたという経験です。
それを二二節では、家を建てる者の退けた石が隅の親石となったと表現し、続けてこれは主の御業、私たちの目には驚くべきことと驚き、感激し、感嘆している訳です。そして、この人が感謝を献げるために神殿の礼拝にやって来る。神殿の祭司が迎えて二六節、祝福あれ、主の御名によって来る人にと呼びかける。この神殿に来る人というのは、思いがけない仕方で救われた人のことです。このように一番目の意味付けは、救われた人の救いの経験の言葉として家を建てる者の退けた石が隅の親石となったと、救いのことを語っている訳です。
思えば、この旧約聖書の詩編に、この石のことがよくもまあ記載されたものです。もし二二―二五節がここに無くて、二一節から二六節へとそのまま繋がっても、私たちは多分、違和感なく読めてしまうでしょう。でも詩編記者は、石の話を記載した。それは、大工さんが家を建てるのに、こんな石では役に立たないなと思って退けた。その石が、その家だか別の家だか、丁度、大事な石として役立った、ということがたまたまあった。あるいは、それが思いがけない仕方で良かった、ということを意味する一般の格言のように広まっていた。それを詩編記者が、自分の救いの経験と重ねて、この詩に記したのかもしれない。でもそのお蔭で、この言葉が聖書の中で、詩編記者の思いを超えて、次へと膨らんでいくことになります。
そうやって次に膨らんだ二番目の石の意味は、この石を、十字架につけられ殺されたが、復活して救い主としてご自身を顕されたイエス・キリストを預言する言葉として意味づける理解です。
この二番目の意味付けをしたのは、まず主イエスご自身です。例えばマルコ一二章のブドウ園と農夫の譬。収穫の時期になり主人が使用人を遣わして収穫しようとしたら、農夫たちが受け入れなかった。それで主人は最後に実の息子を送ると、農夫たちがその息子を見て「これは跡取りだ。殺してしまえば相続財産は我々のものだ」と思い込んで殺してしまった、あの譬え話です。あの譬え話をお語りになって主イエスご自身が一一八篇の石の御言葉を引用なさった。殺された息子はあの石のようなものだ。そしてこの石とは私の事だと、ご自分のことを証しする言葉となさった訳です。
次に弟子たち。例えば使徒言行録四章、足の不自由な人が癒されるあの美しい門での出来事を巡る説教の中で弟子たちは語りました。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなた方が、十字架に付けて殺し、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ『あなた方、家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」。主イエスを石と重ねて語りました。
そして今日のペトロ書簡も二章四節で、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石である、この主のもとに来なさい、と語ります。この隅の親石となられた主イエスを救い主として信じていこうと勧めている訳です。六節で聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」。従って、この石は、信じているあなた方には掛けがえのないものですと。このたった一つの要石、隅の親石は、イエス・キリストを信じる私たちにとっては、私たちを失望させないかけがえのないものです。
このように主イエスが、弟子たちが、そしてこの書簡でも、捨てられたが隅の親石となったこの石を主イエスと関わらせて意味づけた訳です。
そして三番目の意味付け。今度は、私たち自身がその石になるということです。ペトロ書五節、あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。私たち自身の事です。要石であっても一つぽつんとあるだけなら、それで終わってしまいます。でも要石ですから、他の石にとって要になる訳です。隅の親石ですから、いわば子供の石がなければならない。この親石を土台にして、その上に沢山の他の石が積み上げられていく。そうやって、門になったり、橋になったり、家になったりしていく。
そして私たち自身が、教会という霊的な家を形作るその沢山の石の一つとなるのだと、ペトロは言う。もちろんイエス・キリストが要石、土台の石であり、私たちが用いられて、この上に積み重なっていく沢山の石の一つひとつになっていく訳です。これが三つ目の意味です。
このように、三つの意味合いを経て家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった(Ⅰペトロ)へと、受けとめられていったのですね。
ところで、先日、母子室手前の本棚を何気なしに眺めておりましたら、或る一冊の本に気づきました。「木には望みがある~年賀状でたどる清教学園の歩み~」という本です。その中に、丁度、今日の二章五節の御言葉と、そこから広がる黙想の言葉が載っていました。朗読してご紹介したい。
「高低差の大きい校舎と運動場の間の斜面に、やっと石垣と階段が出来上がった。特に玄関前から運動場に降りる部分は、クヌギと雑木の崖で、通行を禁止にしているのに、生徒が気ままに駆け下りる跡が、けもの道のようになっていた。よくまあ事故が無くて済んだことだと、冷や汗ものであったが、やっとやっと積年の課題が解決した。
その工事費は、卒業生の記念寄付、同窓生の応援、後援会の寄付、そして府の補助金、足らずは経常費を切り詰めてまかなった。だから、私たちには石垣の石の一個一個が、清教学園を支える一人ひとりの顔に見えるのだ。みんなで作り上げてきた学校で、この伝統が今も生きて、清教の命として引き継がれている。
教育は人づくりである。石垣の石の一つひとつが生きて見えるのは、自分も共に担うことを良しとする、愛校の石積みであるからに他ならない」。
この文章を読みながら、これは霊的な家を造り上げる教会の場合も同じだと思いました。思えば教会の伝道、教育、奉仕の宣教の業は人造りです。まず主イエスが、要石、隅の親石になって土台を担って下さった。そして、自分も共に担うことを良しとする、そういう人造りです。私たちはキリストを愛し教会を建てていく石積みの石に他なりません。私たちお互いが良く組み合わさった石積みを形成します。八節の後半、彼らは御言葉を信じないので躓くとありますが、私たちは、御言葉を信じ、隅の親石を土台とする生きた石です。
ペトロは、この主のもとに来なさいと励まします。福音書にもそういう人たちが登場します。香油を主イエスに注ぎかけたあの婦人、主の招きに応じてイチジク桑の木から降りてきたあのザアカイ、主イエスの服に後ろから触れたあの病の女性も・・・。そうやって主の御もとに来る人は他にも大勢登場します。福音書の物語を辿りながら私たちは、自分もこの人たちのように主の御もとに出向いた一人だと思い起こせる事でしょう。
そして詩編の祭司の言葉、主の御名によって来る者に祝福あれ。霊的な家に造り上げられる教会はそういう所です。今日も皆さん、キリストの救いと出会いを求めてここに来られました。そして感謝をささげています。主の御名によって来られた祝福の一人ひとりが皆さんです。
これから聖餐の恵みに与ります。先週詩編三四篇の御言葉、追われる身の苦難の中のダビデの詩を聴きました。味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。私たちはどこで、どのようにして、主の恵み深い方であることを味わい、祝福を戴くのか。それは礼拝での御言葉と聖餐の恵みを通して、主の御もとに身を寄せることによってです。