日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年7月12日 説教:森田恭一郎牧師

「試練と誘惑、真理の励まし」

詩編七八・二三~二五
ヤコブ一・一二~一八

本日のヤコブ書、小見出しは「試練と誘惑」です。試練や誘惑に弱い私たちを守る神様の恵みについて、今日の聖句から味わいたいと思います。

試練と誘惑、ギリシャ語では実は同じ単語です。それを文脈に合わせて訳し分けます。同じ単語が両面性を持っているというのは、私たちの実体験としても理解出来ます。ある苦難が試練なのか誘惑なのか、その時には分からないことが多いからです。あるいは明確に、これは誘惑ではなく試練だとか、これは試練ではなく誘惑だと自分で分かる時もあります。でも区別出来ても、例えば受験勉強と言えば試練ですが、それは絶えず遊びたいという誘惑にさらされている訳です。逆に誘惑に流されないことが試練に打ち勝つことだと思える時もあります。試練と誘惑は意外と一体ですね。

 

試練。ヤコブ書は試練を耐え忍ぶ人は幸いですと語ります。試練という言葉に併せて思い起こすべき言葉は「耐え忍ぶ、忍耐」です。どういう時に忍耐出来るかというと、先程の受験のように、自分の目標を目指しているプロセスとしての苦難は試練として耐えられます。

あなた方はこれを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなた方を子として取り扱っておられます (ヘブライ一二・七)。なる程、苦難を主からの鍛錬として受けとめられれば耐えられるということになりましょうか。単語は異なりますが、鍛錬は試練として受けとめられますね。

 

課題は目標に至る試練でもなく、鍛錬としても受け止められない場合です。不条理です。今回の豪雨災害でも四年連続で被害に遭っていると嘆いている人の報道がありました。「今度、洪水になっても大丈夫なようにと随分かさ上げしてビニールハウスを作ったのに、もっと水かさが増してしまって、また大きな被害になった。何故こんなに続くのか。何も悪いことしていないのに」と…。

いくら自然災害とは言え、いや環境破壊から来る人災だと分析した所で、自分の責任に負えるものではない不条理です。これから、ご本人や社会が立ち直って新たな生活や社会を形成していけるなら、豪雨水害は試練として受けとめられますが、仮に、ここでやる気を無くし自暴自棄になったりしたら誘惑です。立ち直って行けるように国や行政、市民のみんなで応援しなければなりません。

 

信仰的に言えば、これを主の鍛錬として受けとめることが出来れば試練ですが、これを機に、信仰を失い神様から離れて行くとしたら大きな誘惑です。信仰を失うきっかけをヤコブ書は語っているようです。誘惑に遭う時、誰も、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神様のせいでこうなったと言ってはならない、という訳です。主の鍛錬なら神様のお蔭で鍛錬されたと試練になりますが、神様のせいでこんなひどい目に遭ったと神様に責任転嫁するようになると、健全な信仰、そして神様から離れる誘惑になります。

それでヤコブ書は、注意喚起します。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望は孕んで罪を生み、罪が熟して死を生みます。私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません、と。

しかし「神様のせいで」と責任転嫁しないのはともかく、誘惑に陥らないなどというのは、どうやったら出来るのでしょうか。欲望は孕んで罪を生む、罪をもたらす訳ですが、欲望は消えない。身体の中にくっついている。食欲、睡眠欲、性欲。これも生きるのに不可欠なものですが、しかしこれらも、欲望が孕んで罪を生むようにまでなると課題が出てきます。例えば、これ以上食べたら太っちゃうと分かっていても食べてしまう。遅れてはいけないと分かっていても寝坊してしまう。主イエスは「淫らな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」と仰いましたが、あの人は綺麗だなと思ってしまう。社会的には、人は次のどれかに弱いと聞いたことがあります。金銭欲、名誉欲、やはり異性関係。こういった欲望に負けない強い精神力を持った人も中にはいるかもしれません。そのように誘惑に陥るな、欲望にそそのかされるな、罪を熟させるな、と聖書は言っているのでしょうか。

 

ヤコブ書はこう書き出していました。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。こうも語っています。信仰が試されることで忍耐が生じるとあなた方は知っています(一・三)。また主イエスも、最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ二四・一三) 。誘惑に陥るな、負けるな、打ち勝て、と果敢に言うのではなく「耐え忍ぶ」と言う。実に控え目な、目立たない有り方ですね。

そして耐え忍ぶというのは、多くの場合、独りでは続けられない。仲間が必要、応援が必要です。

一昨日から、スポーツ観戦が五千人まで構わないことになりました。選手にしてみれば競技、プレイをするのは自分であって観客ではないのですが、

声援があるのとないのとでは全く違う。強いプレイというか元気なプレイが出来るようになる。

あるいは、アルコール依存症の人がお酒を飲みたい誘惑に陥らないために、飲まないのは自分なのだから自分で頑張れば良さそうなものですが、身体が言う事を聞かない。独りだとどうしても飲んでしまう。それでグループを作り、誘惑に陥る弱さをさらけ出し分かち合いながら応援し合っていく。一緒に耐え忍んでいく。他にも患者会やその他応援し励まし合う仲間が必要とされています。

 

私たち信仰者も同じで、自分の弱さに直面している時、スポーツ選手のように強くプレイするように生きるというより……、相手の弱さに出会った時、それじゃ駄目でしょと相手の弱さを指摘して行くというより……、共感し現実を包み込み、耐え忍び、希望を以て待ち望んでいく。そうやって応援し合う。教会の相互牧会に歩む私たちの目指す姿は、時には、隣人愛に生きるというような何か前向きな華々しい生き方もあるでしょうけれども、本当に信仰によって生き、支え合うことが必要な時に、そこで求められるのは、多くの場合、耐え忍ぶ姿なのではないでしょうか。

 

希望の内に耐え忍んでいく力を与えるのは何か。ヤコブ書は語ります。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。

それは丁度、旧約のイスラエルの民が、エジプト脱出の紅海の奇跡の後、荒野の四十年の旅の間、それは忍耐の旅でありましたが、神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを降らせ、食べさせて下さった。神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた(詩編七八・二三~) 。そのように、生きる力は天から、上から、御父から恵みとして来る。

そしてヤコブは続けて語ります。御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んで下さいました。興味深い言い方です。生んで下さった。私たちは、神が造って下さった被造物です。ニケア信条などでは、生むという言い方はありますが、それは御子イエス・キリストに用いる用語で私たちには用いないのが普通です。現実の私たちは、欲望は孕んで罪を生み、罪が熟して死を生みます。そんな自分だし、相手だし、私たちです。

でも相互牧会の関わりに於いて、私たちは、御父が御心のままに真理の言葉によって生んで下さった私たちなのだと確認し合う。地上の歴史における現実の私たちは造られて、罪を犯し続ける人間です。しかし神の視点から見る私たちの、終末の完成時の姿はそうではない。真理の言葉によって、御心に従って生まれた存在なのです。

 

ヤコブはもう一言加えます。それは、私たちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

初穂というのは二番目、三番目の穂が続くということを意味します。初穂の使い方も興味深い。私たちが通常思い浮かべるのは、私たちの初穂としてキリストが甦られたという事ではないでしょうか。でもここでは、私たち信仰者が初穂です。終末時には地上では信じていなかった他の人々や被造物が後に続くということのようです。

と同時に、私たち自身も、地上では全く不完全です。でも教会に集い御言葉を聴き、終末における100%救い取られた自分たちの姿を信じる時、それが地上の欠けある自分の人生の初穂になっている。

相互牧会にて、時に身体的に、時に精神的に、時に信仰的に弱った相手を共感しながら、包み受け止め、お互いの姿を真理の言葉によって生み出された者として見出していく。

婦人会が、教会でケアー出来るようになるといいと願っているのは、身体的ケアーで終わるものではない。教会でこそ出来るケアーを目指している。その相互牧会のケアーは、この終末における完成の姿を望み見て、希望を失うことなくキリストに賛美をささげながら生きられる日々を過ごす、ここに目的がある訳ですね。希望を仰ぎ見る耐え忍ぶ豊かさがあります。