日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年2月14日 説教:森田恭一郎牧師

「被造物、恵みを受けて皆うたう」

ゼカリヤ  三 ・七~一〇
ヨハネ黙示録五・一~一四

年数回、ヨハネ黙示録から味わっています。今日は第五章です。第五章は第四章と併せてヨハネが幻の内に見出した天上の礼拝の様子を描いています。今日の主題は、教会の礼拝が、天上の様子を仰ぎ見ることが出来る天に開かれた窓口であるということです。

天上の礼拝にはまず、父なる神様が居ましたもう。また私は、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た(黙示録五・一)。父なる神様は右の手に巻物を持っています。そこに天使の声が響き渡ります。また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのに相応しい者は誰か」と大声で告げるのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことの出来る者、見ることの出来る者は、誰もいなかった。この巻物を開くにも、見るにも、相応しい者が誰も見当たらなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老の一人が私に言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことが出来る」(黙示録五・二~五)。

そこで、キリストが登場します。そのキリストのお姿を、記された言葉からイメージするようにヨハネは招きます。私はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である(黙示録五・六)。これはしかし、キリストには七つの角や目がある、七つの霊があるということを文字通り信じなければならないということではありません。

これには旧約聖書の表現が反映しています。角はダニエル書に角の生えた雄羊が幻の中に出てきます(ダニエル八・三)。また目は、ここに石がある。これは私がヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。私はそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く(ゼカリヤ三・九)。あるいは四章一〇節末尾には「その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である」とも記してあります。その眼差しから漏れる者はないという意味で完全性を言い表す黙示文学の文学的表現です。この旧約聖書の表現をヨハネはそのままキリストに当てはめている訳です。キリストが救いの完全性を身に帯びておられることを表わしています。

次にキリストが巻物を受け取るのに相応しい唯一の方として進み出ます。小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った(黙示録五・六)。

 

ここから幻の場面は天上の礼拝の賛美の様子を記します。ここから皆さんもヨハネと一緒に天上の礼拝の様子を仰ぎ見て欲しい。巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は…と続きますが、この四つの生き物というのも、何だろうこれは?と訝しく思わないようにしましょう。四章に細かく外見の様子は描かれておりましたが、これもエゼキエル書(エゼキエル書一・五他)に既に登場しています。神殿にいるあの天使のセラフィムのような、天的存在です。ヨハネは旧約聖書に登場するものをイメージしながら、幻を見ているだけです。また長老たちというのは、信仰を全うした人間の側の信仰者を代表する者としての存在でしょうか。人間もまたこの天上の礼拝に参与しています。

話を戻しまして、ここから天上の礼拝が始まります。彼らは小羊なるキリストの前にひれ伏し、香の煙と香りが天へと立ち上るように祈りをささげ、キリストをほめ称える新しい歌をうたいます。

おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。そして、彼らは新しい歌をうたった。

「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのに相応しい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ…、

キリストの十字架での異邦人も含めた全ての人のための犠牲を指しています。そしてキリストが成し遂げて下さった贖罪の恵みを受けて、異邦人も神に仕えます。彼らを私たちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」(黙示録五・九~一〇)。

その次には天使たちの群れがほめたたえます。また、私は見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるに相応しい方です」(黙示録五・一一~一二)。

それから被造物全てがほめたたえます。また、私は、天と地と地の下と海にいる全ての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」(黙示録五・一三)。天地万物の礼拝です。

そして先ほどの四つの生き物と長老たちがこの万物の礼拝にまた登場して締めくくります。四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した(黙示録五・一四)。

 

先ほど、ここから皆さんもヨハネと一緒に天上の礼拝の様子を仰ぎ見て欲しい、と申しました。何故でしょうか? 天上の礼拝の様子を仰ぎ見ることが出来るのは、地上の教会の礼拝だけだからです。ここに教会の本来の姿が現れている訳です。逆に言えば、主の礼拝を仰ぎ望むことの出来ない礼拝は、教会の本来の姿ではない。神が祈りとほめたたえの歌を受けておられる天上の礼拝、これを黙示録は描いています。ここでこそ「ここに神がいましたもう、アーメン」と高らかに声をあげることが出来る。その神のお姿を、教会だけが、神様のご臨在と天上の礼拝の光景をこの地上で映し出している訳です。

 

以前、雑誌の「信徒の友」にこんな文章がありました。「一人、二人礼拝に誘いましょう。新来会者が訪れたらあれこれサービスしなくてもよい。もしかすると私たちはサービスし過ぎなのではないでしょうか。受付で住所を記してもらい、礼拝前から話しかけ、報告の時間にはその人を紹介して歓迎し、礼拝後には会話に弾みを付けようと、共通の話題が見つかるまであれこれ質問する…、そんなことをした後に、その人が再び礼拝に来ないことをいぶかしがるとすれば、それは私たちの感覚がどこか鈍麻している。新来会者が捜しているのは、神がそこにおられると感じられる場所、神の現臨によって人生を変えられたことを示す何らかの痕跡を持つ人々がいる場所です。新来会者が捜しているのは天が見えるコロニーです。あなたこそ、天の国の香りのする人、天がのぞき見える人です。あとはそれを信じて、新来会者が何かを感じ取って戴けることをそっと祈る」。

思えば、私たちの人生は、実はこの天の礼拝を目指しているはずです。時に弱音を吐き弱さをさらけ出しながらも、目指しています。私たちは天の都への旅人です。それが新来会者の方たちに感じ取って戴ける私たちの姿です。そして事実、私たちは毎週の礼拝で、天上の礼拝で起こる出来事、万物が集ってささげる壮大な礼拝を覗き見るようにして、キリストを仰ぎ望みながら、喜びを感じ、私たちのこの世の人生が支えられている。

今日の黙示録は、地上の他では楽しみ味わうことの出来ない、天上の礼拝の最高の高品質な感動と安らぎを、私たちに映し出している訳です。