日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年7月31日 説教:森田恭一郎牧師

「行きなさい、平和の内に」

詩編 九四・一六~一九
マルコ一〇・四六~五二

先週の説教で主イエスの御言葉を味わいました。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ一六・三三)。「勇気を出しなさい」。これは「安心しなさい」とも訳す事の出来るとお話しました。今日の聖書箇所では人々が盲人バルティマイに向かって言った呼びかけ「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(マルコ一〇・四九)も「勇気を出しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と訳しても構わない訳です。今日はこの「安心しなさい」の言葉の豊かさを味わいます。

そして言うまでもなく、安心するということが平和であるということでもあります。

 

さて、ここに一人の盲人のバルティマイという人がおりました。彼は「お恵みを、憐れみを」と言って、道端に座って物乞いをして辛うじて日々の生活を繋いでおりました。この彼を本気で憐れむ人がいたでしょうか。この日も道の端っこ=道端が彼に座っている居場所でありました。その彼の前を主イエスの一行が通り過ぎていきました。目が不自由なので聞くと、ナザレのイエスだと聞いて、彼は俄然、叫び始めました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」。叫びました。いつもの「お恵みを、憐れみを」とは全然違う。でも人々の彼に対する関わり方は全然変わらない。多くの人々が叱りつけて黙らせようとした。

 

今日の詩編にこうありました。災いをもたらす者に対して、私のために立ち向かい、悪を行う者に対して、私に代わって立つ人があるでしょうか。主が私の助けとなってくださらなければ、私の魂は沈黙の中に伏していたでしょう。「足がよろめく」と私が言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。私の胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、私の魂の楽しみとなりました(詩編九四・一六~)。

バルティマイはどれでどうしたでしょうか。彼は益々、「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫び続けた(マルコ一〇・四八)。これ程までの叫びの中に、これまで彼が沈黙の内に伏していた心からの叫び、彼の胸を占め、心の足もよろめくようになっていた思い煩い、すなわち腹一杯食べたいという身体的求めがあったし、生活を維持する経済的求め、人々からまともに付き合ってもらいたい社会的求めもあったでしょう。そうしたら、イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。無視されなかった。神の慰めが到来してくる。

主イエスから言われてそれで人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。主イエスは、盲人バルティマイを直接お呼びにはなりませんでした。最初、彼を叱って黙らせようとした人々に命じて、その人たちに呼びに行かせました。そしてこの人々が「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」とバルティマイを呼び寄せました。ヨハネ福音書で「勇気を出しなさい」と主イエスがお語りになった言葉を、この人々が代わりに語ることになりました。この人々が、謂わば、私たち教会なのではないでしょうか。

 

「勇気を出しなさい、安心しなさい」。元はと言えば主イエスが語られた宣言のお言葉を、代わりに語る存在を社会は必要としています。それを個人であれ、教会であれ、社会システムであれ、誰かが語り、助けを必要とする人々に持ち運ぶ存在が必要です。

今日、午後に「人生会議」を巡って講演会を開催します。人生会議そのものについては講演会で伺いたいと思いますが、自分が何らかの理由で十分に意思表示できなくなったときに、どういう医療を受けたいか、自分はどこで、病院、施設、自宅で過ごしたいか。何を大事にして生きたいのか、相続をどうしたいか、何を後世に受け継いで欲しいのかなどを、事前に考え、言葉に表現し、周囲の関係者に共有してもらう営みです。そして自分自身は、安心して勇気を出して生きていく。

今日の講師の方は信仰者ではありません。でも私たちが、勇気を出し安心して生きられるように隣人に仕える重要な働きをしています。医療介護の身体的ケア、居場所を確保する社会的ケア、対人関係の中で過ごせる精神的ケア、様々な分野があります。

自分がどう生きていくのか。若い人も含めてこれらのことに無関係の人はいません。そして教会は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」の言葉が、元はと言えば主イエスのお言葉であることを知っています。神との関係を安心できるようにと信仰的安心、安らぎのために仕えることが出来ます。スピリチュアルケアと言うこともあります。

 

主イエスはある時、こう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ二・一七)。この前半の言葉はよく、丁度、病人が医者を必要とするように、そのように罪人は贖い主である主イエスを必要とする、と例えのように考えられるのですが、主イエスは多くの人を癒されたのですから、そのケアは、単なる例ではなく、病人もまた主イエスを必要とする、と語っているのではないでしょうか。助けを必要とする私たち、人生会議を始める必要をみんな誰もが抱えている。

教会もまた、いや教会こそが発信できる人生会議の内容がある。人生のどのような場面もまた、主イエスの「安心しなさい」のお言葉が必要です。私たちを支える言葉です。教会の相互牧会も「安心しなさい」の言葉を確認し分かち合う営みです。

 

憐れみを叫び続けたバルティマイは人々を通して主イエスから呼ばれてどうしたでしょうか。盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をして欲しいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った(マルコ一〇・五〇~)。彼は「行きなさい」と言われて、どこへ行ってしまったのではありません。なお道を進まれる主イエスに従ったのでした。主イエスと、人々と本人とのやり取り(=これもまた人生会議)を通して、主イエスに従うことが彼の求めていたこれからの人生の歩みとなりました。