日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年12月8日 説教:森田恭一郎牧師

「落ち着いて静かに信ず、神の業」

イザヤ七・三―一〇
マルコ九・二〇―二四

家庭集会でまだ教会の礼拝に出席していない方が「信じるのは難しい」と仰いました。私が、私たちは天地創造の前から神様に覚えられ、愛の対象として生まれ、私たちの本国は天に在る。その間を生かされている。それは信じることだ、という主旨の話をした所で、そのように仰ったのです。

 

イザヤ書七章の所、紀元前八世紀後半、北王国イスラエルが南王国ユダを攻めるために、その北側にあるアラムと軍事同盟を結んだ歴史の出来事を語っています。その知らせがダビデの家に届いたとき、アハズ王と民衆の心は、森の木々が風に揺れ動くように動揺したのでした(イザヤ七・二)。その時に神様がイザヤを通してアハズ王に語られました。落ち着いて静かにしていなさい、恐れることはないと。でもアハズ王は落ち着いてなんかいられない訳です。

主は続けて語ります。アラムを率いるレツィン(=アラム王)とレマルヤの子(=北イスラエル王)が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株(=間もなくアッシリアに滅ぼされるから)の故に心を弱くしてはならない。アラムがエフライム(=北イスラエル)とレマルヤの子に語らって、あなた(=アハズ王)に対して災いを謀り「ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう」と言っているが、主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。主なる神の宣言です。だから落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない

けれども、アハズ王自身がこれを信じなければ、あなた方は確かにされない(九節の終わり)。信じて落ち着くようにと招きます。それだけでは落ち着いてなんかいられないと言うなら、主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。しるしを見たら安心するだろうという訳です。でもアハズ王は求めなかった。もっともらしく私は求めない。主を試すようなことはしないと応えます。それでイザヤは重ねるようにして告げます。それ故、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。そのしるしとは、見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(七・一四)。旧約の文脈ではアハズの次の王、ゼカリヤのことです。その子の誕生のしるしを以て御心を確信すればいい。

 

キリスト教会の私たちは、この男の子を主イエスのことだと、ヒゼキヤの事は飛ばして理解致します。イエスが神の御子救い主であられる、十字架にかかられたのは罪の贖いの業である、イエスが甦られた、これを信じます。

求道中の自分を考えると、キリスト教を信じるようになるのは決して簡単なことではなかったと思い起こします。ここにおられる未だ洗礼を受けていない皆さんも、そう簡単には信じられないというのが正直な気持ちだと思います。イエスが天から降って来られた神の御子、処女から生まれた、十字架が私の罪の贖い、死人の内から甦られた…。そんなこと科学で証明出来ないではないですか…。近代人は尚更、信じられなくなっている。成るほど自然科学で証明出来ませんが、実は無かったとも証明できない。あったとも無かったとも言えない、というのが自然科学の立場からの答えです。それなら、しるしを求めたらいい。

私たちが信じることが出来るは、しるしがあるからです。教会に集い、礼拝で繰り返し語られる聖書の言葉を聞く。そして信じられない古い自分から信じる新しい自分へと変えられる洗礼があり、主イエスがこの自分のために確かに十字架にかかられたことを現わす聖餐がある。聖書や、洗礼や聖餐。これらはしるしです。それで私たちはイエスを主キリストと信じることが出来る。

キリストを信じることが出来るようになると、今度は、十字架にかかられ、復活し、昇天されたキリストがしるしとなります。だから、私たちも罪贖われた者として罪赦され、甦らされ、天に召される、我々の本国は天に在ると確信することが出来る。キリスト教徒もしるしがないと信じることが出来ない、その弱さを抱えているからです。

 

これは福音書の人たちも同じです。今はアドヴェントですので、ルカ福音書からザカリアを思い起こしましょう。天使ガブリエルから「あなたの妻エリザベトは男の子を産む」とお告げを受けました。祭司ですから信仰深いはずです。でもその彼でさえ、しるしがないままには信じることが出来ない。ザカリアも妻エリザベトも既に歳をとっているからです。それで天使が言う。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことが出来なくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」(ルカ一・一九~)。口が利けなくなるというのは、信じなかったことへの罰のように思われるかもしれませんが、そうではなく、これも信じる事へのしるしです。天使が言われた通りに話せなくなったように、天使が言われる通りに妻エリザベトが男の子を産む。ザカリアは十か月の間、沈黙の内に天使の語ったことの確かさを味わい、男の子が生れると、口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた(一・六四)のでした。

マリアも天使のお告げを最初は信じられない。でも彼女にしるしが備えられました。天使が言いました。「あなたの親類エリザベトも年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神に出来ないことは何一つない」。エリザベトの妊娠のしるしを与えられてマリアは信じる者へと変えられます。そして「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と応えました。

 

それで今日のマルコ福音書。ここに登場する父親の子ども、地面に倒れ、転び回って泡を吹いた霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。するとこの子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます(九・一九)とありますので、今日これは癲癇(てんかん)だろうと言われています。父親がまず弟子たちに癒しを求めたのですが弟子たちに出来なかった。すると主イエスは言われました。「何と信仰のない時代なのか」。主イエスも信じられないでいる私たちの姿をご承知です。それでどうするかと言いますと「その子を私の所に連れて来なさい」。

連れて来られると主イエスは父にお尋ねになります。「このようになったのはいつ頃からか」。父親は応えて「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」。問いに導かれて状況を説明する内に思い余って懇願します。「お出来になるなら、私どもを憐れんでお助け下さい」。

これを聞いて主イエスは言います。「出来れば」と言うか。信じる者には何でも出来る(二三節)。先に天使がマリアに「神に出来ないことは何一つない」と言われたように、主イエスも「何でも出来る」と答えられました。また、ここをよく読んでみますと信じる者は何でも出来る。主イエスを信じる者には主イエスは何でもお出来になる、とも読めます。それは私たちが話しをする時に、この人は聞いてくれると思える人には話をしますが、聞いてくれないと思うと話しかけることもやめてしまうのと同じ様なものでしょう。主イエスもこの人は信じてくれると思えた時に御業をしてあげよう、ということはあり得ます。信じる者に対しては何でも出来る。私たちに信じることを求めておられます。だから信じましょう。「お出来になるなら」ではなく「信じます」と言ってごらんと、主イエスは招いておられます。

これを受けて父親は叫びました。「信じます。信仰のない私をお助け下さい」。聖霊の導きの出来事が起こりました! 表現としては、信じているのか信仰が無いのか、どっち?と聞きたくなるような矛盾した言い回しです。でも私たちもこれが実際の姿です。信じるのが難しい、信じられないでいるんです。まだよく分からないままです…、と言いながら、でも「信じます」と信仰告白、洗礼へと導かれます。そしてその後も不信仰を抱えつつも信じる方へと導かれて、今日に至っています。

 

そのために何が必要か? 繰り返しますが、しるしを求めることです。私たちにとってそのしるしとは、「私の所に連れて来なさい」、連れて行ってもらう所、主イエスです。クリスマスにわざわざ天から地へと降誕なさり肉となり、見えるしるしとなって下さいました。そしてそのキリストを指し示す教会をこの世にお建てになりました。キリストを証しする聖書を教会に据え、信じる者へと新しくする洗礼、聖書を説き明かす説教と味わう聖餐を整えて下さいました。信じる自分の確かさよりも主イエスの側の確かさに直面しながら、主イエスの所に立ち戻る。主イエスを信じるから、自分の救いを信じられるようになりました。

天使たちがザカリアの所に、マリアの所に来て、しるしを示し信じさせてくれました。そのように降誕節のこの時、キリストのしるしを求め信じるようにと、聖霊は私たちを促し招いておられます。