日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年7月5日 説教:森田恭一郎牧師

「草は枯れ花は散っても、愛は永遠」

イザヤ四〇・六~八
ヤコブ 一・九~一一

今日のヤコブ書は、貧しい兄弟は高められ、富んでいる者は低くされる。それを両者ともに誇りに思いなさいと語ります。誇りに思う、それは貧しい兄弟ならば、貧しいが故に卑屈になる思いが砕かれて高められる。富んでいる者ならば富んでいるが故に富に安心を見出す思いが砕かれて低くされる。それを誇りに思おうと語っている訳です。

 

貧しい兄弟の貧しさ、まず思い起こすのは経済的な貧しさです。そしてそれをもたらす社会的地位の貧しさ、次に経済的社会的に貧しいと他者から見下げられ不利益を被る貧しさがあります。昨今改めて噴出したアメリカでの人種差別問題はその典型です。こういう経済的社会的不利益は、国家や地域社会としても克服すべき課題です。更に人によっては自分や不条理の人生を愛せない貧しさ、それから苦難を背負う中で神を愛せなくなる貧しさもあるでしょう。しかしそれらの事を背負いながらその中で、卑屈にならずに生き抜いて行かなければなりません。

ヤコブ書は、このように様々な貧しさを思う兄弟に対して、高められると語ります。直訳すると、これから高くなるというより「貧しい兄弟は彼の高さにおいて誇りなさい」と語っています。国家に対して社会的問題の解決を求めるというよりは、本人に与えられている既にある高さに目を向けさせてくれます。その高さとは? エフェソ書に、また、あなた方が全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの全てに与り、それによって満たされるように(三・一八)とあります。現実の社会的貧しさから抜け出て自分自身が高くなるというより、キリストの愛の広さ、長さ、深さ、そしてキリストの愛の高さに与り満たされます。これによって与えられる自分の高さが既にある訳です。

 

先日、休暇を戴きまして、日曜日には高知県の四万十市にあります中村栄光教会の礼拝に出席してきました。私たち夫婦と娘の三人を入れて全部で七名の礼拝出席でした。週報に、牧師のお書きになった「信仰生活随想」の一文が載っていました。

「ある小山に断崖がありました。それはかつて激しい暴風によって生じた深い傷跡でした。丸裸となり荒廃した広い裂け目は、その惨めな姿を緑の草地の中に露出していました。しかし歳月が過ぎ去り、濃い緑の松がそれを覆い、裂け目には草と苔が生じ、裂け目を覆い、断崖は花とぶどうづるによって以前よりも美しくなりました。

多くの苦しみや悩みを通って、心に多くの傷を負い、悩み抜いた人にもこのようなことが起こります。柔和な心を持ち、愛を与えることの出来る人は、しばしば苦難によって傷つき、嘆き、疲れ果てていた人、しかしやがてそれが癒され、それを乗り越えた人です。

人生において苦難は避けられません。傷つくことも避けられませんが、主はやがてそれを癒し、それを誰かを励ます力に変え、あなたの人生に花を咲かせて下さいます」。以上ですが、題がついていました。「傷に咲く花」。とても詩的な文章、題ですね。貧しいとは経済的貧しさに限りません。苦しみや悩みや苦難、これも貧しさと言い得るでしょう。でもそこに花が咲く。キリストの愛の高さにあって心を高く挙げ、この希望を持てるなら、花が咲く前から既に高められていると言えますね。

 

招きの言葉にこうありました。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救って下さる(詩編三四・一八)。助けを求める叫びと苦難にある中で、打ち砕かれた心、神に向かう悔いる霊、ここにも花が咲いている。

キリストはこういう譬えを語られました。ファリサイ派と徴税人の祈りの譬えです。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんで下さい」。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる(ルカ一八・一三~一四)。 ここで、罪人の徴税人が高められたのは、神様の憐れみにすがることによります。富の多少に関係なく、人は神様の憐れみ、その恵みに生かされている事実をご指摘になりました。ファリサイ派の人たちから見下げられていた徴税人ですが、徴税人本人が気づかない内に、高められて傷に花が咲いています。

 

それでは、富んでいる者が低くされることについてはどうでしょうか。ここもそのまま読みますと「富んでいる者は彼の低さに於いて誇りなさい」です。富んでいる者は、どうしても彼の富みを人生の土台にしてしまいます。富を誇り、神を人生の土台とせず神を誇らない。それでヤコブは続けてこう語ります。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです(一・一〇b~一一)。たとえ事業が成功して富を築き、美しい華麗な花がどれ程咲いたとしても、地上の花である限り、それはしおれて行きます。また天の国へ財産を持って行くことは出来ません。人は例外なく、裸で生まれ裸でかしこに帰る。イザヤ書が語っていました。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、全ては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ(四〇・六~八)。

富んでいる者は彼の低さにおいて誇りなさい。その低さとは神の言葉に与る低さです。富は容易に消え失せても、神の言葉は永遠です。とこしえです。神の言葉と併せて、キリストが低くなられたことに想いを向けることは有益です。キリストは神ご自身であられるのにそれに固執なさらず、人間の姿で現れ、へりくだって=低くなられて、十字架の死に至るまで従順であられました(キリスト賛歌=フィリピ書二・六~)。

そして、誰が一番偉いかと問う弟子たちに、へりくだって低くなられたキリストは、一人の子どもを彼らの中に立たせて言われました。自分を低くして子どものようになる人が天の国で一番偉いのだ(ルカ一八・五)。貧しい兄弟や子どもを受け入れて生きる、打ち砕かれた姿を示されました。

 

前回、使徒言行録からコルネリウスとペトロの話を致しました。ペトロはユダヤ人、コルネリウスは異邦人。ペトロから見れば、異邦人は汚れた見下げるべき人たちです。両者ともに、自分の思っていることが打ち砕かれ、思っている以上のことが示されました。まず、コルネリウスが祈っていると、幻の内にペトロを招きなさいという天使の言葉を聴きました。一方ペトロは、祈っている内に示されて、色んな動物や鳥などを入れた布のような入れ物が降りて来る幻を見る。それを食べなさいという声が聞こえる。ペトロが「主よ、とんでもないことです。清くない物は食べたことがありません」と応えると「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」との声を聴き、異邦人を含め、神は人を分け隔てなさらないこと(一〇・三四)が分かったのでした。

貧しい兄弟は高められ、富んでいる者は低くされる。高さと低さが逆転するのではありません。ペトロは低くされ、コルネリウスは高くされて、双方共に、神が分け隔てなさらない恵みの内に打ち砕かれて対等な者とされました。

 

この後、聖餐の恵みに与ります。キリストは豊かであられたのに私たちのために貧しくなられました。それはキリストの貧しさによって私たちが豊かになるためです(Ⅱコリント八・九)。キリストは低くなられて貧しい兄弟と共にあり、富んでいる者にもキリストの憐れみとその恵みによってこそ生かされていることをお示しになられました。

聖餐に於いて、私たちもこの恵みに与ります。