日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年2月16日 説教:森田恭一郎牧師

「耳に入れ、心に納め、言いなさい」

エゼキエル書二・八 -三・四、一〇-一一
マルコ   四・九

今日は旧約聖書のエゼキエル書から御言葉を味わいます。エゼキエルは神様からのお手紙、巻物を食べたというのが今   日のお話です。手紙を食べる、紙を食べる。皆さんは紙を食べたことがありますか? 普通、ありませんね。けれど、紙を食べる動物がいる。そうです。山羊です。もっとも、コウゾ、ミツマタの食物繊維で作った紙でないとお腹を壊します。ちゃんとした紙なら山羊さん食べても大丈夫です。山羊の歌でこんな歌、知っていますか? 「山羊さん郵便」という歌です。

♪白ヤギさんからお手紙ついた

黒ヤギさんたら読まずに食べた

仕方がないのでお手紙かいた

さっきの手紙のご用事なあに。♪

白ヤギさんがお手紙書きました。受け取った黒ヤギさんが読まずに食べちゃったので、お手紙の内容が解りません。それでお手紙の内容は何だったですかと返事を出したという歌です。こんな歌がある位、ヤギさんは本当に紙を食べるんですね。

 

今日のエゼキエルのお話も、紙を食べるお話です。人間なのに。どんなお手紙だったかというと、(巻物を見せながら)巻物です。クルクルとなっていて、これを広げて読みます。神様の御手がグーッと伸びて来て「口を開いてこれを食べなさい」(エゼキエル二・八)。これをさっきのヤギさんは読まないで食べてしまいました。エゼキエルは、ちゃんと読みました。読んでみると、巻物の表にも裏にも字がびっしりで、叫びや涙の言葉が書いてある。哀歌(哀歌というのは悲しみの歌です)と呻きと嘆きの言葉であった(エゼキエル二・一〇)というのですね。辛く苦しいことばっかり書いてあります。

こんなに辛いことが書いてあるのは、イスラエルの都、エルサレムは、バビロニアの国の軍隊が攻めて来て滅んでしまった。かろうじて生き残った人たちが捕虜になってバビロニアの国に連れて行かれたからです。その中にエゼキエルもいた。みんな辛かった。数年経った頃、天が開かれ神様が現れました(エゼキエル一・一参照)。巻物を持った神様の御手がグーっと伸びて来て「これを食べなさい」。こう言われて受け取った。読むと哀しい言葉、涙と叫びの言葉、辛いことばかり書いてある。よーく読んでみると、今哀しい思いをしているのは、君たちが神様を礼拝しない罪のせいだったのだと書いてある。これを読んで、自分たちの罪のせいでこんな風になってしまったのか~。

 

エゼキエルは、この哀しみの巻物を食べました。おいしかったのでしょうか? さすがに紙を食べても、しかも哀しみの巻物食べてもおいしいはずがありません。でも聖書に何て書いてありますか。私が口を開くと、主はこの巻物を私に食べさせて言われた。「人の子よ、私が与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」。腹を満たすほどに一杯食べたんですね。すると不思議、不思議。私がそれを食べると、それは蜜のように甘かった(エゼキエル三・三)。哀しみの言葉がたくさん書いてある巻物の紙を食べて胃袋に入れて腹を満たしたら、蜜のように甘かった。

あの頃のイスラエルの人たちは理想の国を「乳と蜜の流れる地」と言いました。日本人だったらどう言うでしょうか。皆さんは甘いものといったら何ですか? チョコレート? 昔の日本人だったら、あんこでしょうか? あんこ餅。今日(午後に餅つき大会がある)あんこ餅ありますか? 今日はあんはないそうです。残念でした。日本人だったら「胃袋に入れ腹を満たすと、あんのように甘かった」となるのでしょう(きな粉の用意はあるそうです)。それにしても哀しみの言葉が食べると甘かったとはどういう事でしょうか?

 

ここに(木製の)スプーンがあります。皆さん覚えていますか。赤ちゃんの時、お母さんが抱っこして「はーい、ご飯ですよ、お口開けてー。まんまんまー、ごっくん。あぁおいちかったー」。赤ちゃんにご飯をあげます。そのご飯は、お砂糖が入っていなくても、おいしくなった。赤ちゃんはもぐもぐ、ごっくん、にこっ、と笑う。甘くないのに何故ですか。それは、お母さんがただご飯をあげているのではなく、愛情をあげているからです。だから、赤ちゃんはお母さんの愛はおいしいなって食べるんです。

エゼキエルも、食べてみたら分かった。あっ、甘い。それは神様の愛がここに詰まっているんだ。噛みしめごっくんして、じっくりと味わってみたら、神様の愛の味がお腹の中に満ちて来た。愛は多くの罪を覆う(Ⅰペトロ四・八)と味わえて来た。

 

普通は言葉を聞くと言います。もう一つ言い方があって言葉を味わうと言います。だから神様はエゼキエルに、口を開けて食べてみなさいと仰ったのでしょう。そして胃袋に入れ、腹を満たせ。心に納め、そのようにして、言葉を味わいます。耳に入れ(エゼキエル三・一〇)という表現も面白いです。耳に入れるなんて余り言いません。わざわざ耳に入れるという言い方をしている。神様の言葉はちゃんと耳に入れるんです。そうしないと私たちは、聞こうとしないで、関心のない事、聞きたくないことは聞き流してしまうからです。聞き流すのではいけないですね。

御言葉を味わいます。耳に入れて、心に納めます。味わうと、御言葉から神様の愛が滲み出て来てじわーっと満ちて来る。その味が浸み出してくるように、耳に入れ食べて、味わう。

神様はエゼキエルに言いました。たとえ彼らが聞き入れようとも拒もうと「主なる神はこう言われる」と言いなさい(エゼキエル三・一一)。人は拒んで聞き入れないことがあります。それでも神様は、そのような人たちに寄り添い続けて、聞き味わうようにと御言葉を語り続けて下さいます。

 

イエス様も少し不思議な表現で仰いました。私の話を聞きなさい、でいいのに、聞く耳のあるものは聞きなさい(マルコ四・九)。みんな耳があるのに聞き流してしまう。聞いているようで聞いていない(子どもは不思議で、聞いていないようで聞いている)。だからイエス様は、食べなさいというのと同じ意味で聞く耳のある者は聞きなさいと仰いました。するとイエス・キリストの愛がジワーッと心の中に広がって来る。哀しみや呻きや嘆きを全て十字架で負って下った。そのお蔭で皆の罪は赦され、愛される一人ひとりになっている。そのキリストの愛の言葉をじっくり聞く耳で聞いて心に納めてごらん。日曜日に礼拝に集う度に御言葉を味わって、キリストに愛されているんだなぁと体中に愛を味わいます。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ四・四)ように御言葉を下さいます。

愛をじっくりと味わえるように、午後、お餅を戴きましょう。あんこが入っていなくても、甘くなってくるに違いありません。よーく味わって戴きます。