ミカ 七・一八~一九
マタイ九・一~七
使徒信条の本日の主題は「罪の赦し」。神がキリストの十字架の贖罪の故に私たち一人ひとりの罪を赦しておられることを信じます。罪の赦しは、神様の側の救いの業、今から二千年前、遠くエルサレムで起こった十字架の贖罪、私たちの外で成就した救いの業が、今、ここに生きているこの私のためのものとして私の中に入ってくることです。使徒信条を告白するとき、使徒信条は私たちをこの恵みの中に招いています。
そして私たちキリスト教徒は、罪の赦しを信じて洗礼を受けたのでした。ペンテコステの日、ペトロは言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して戴きなさい」(使徒言行録二・三八)。洗礼と罪の赦しは一体です。ニケア信条も「罪の赦しのための一つのバプテスマを認めます」(讃美歌二一、九三-四)と告白しています。キリストの贖罪の故に私の罪は赦された。アーメンです。
けれども、現代社会に生きる私たちにとって、罪の赦しをどれだけ真剣に求めているかというと、案外、求めていないかもしれません。もちろん刑法に触れるような犯罪なら罪の認識はあります。人々の一般的感覚は、刑法をおかしていないのに何故、キリスト教は罪人と強調するのか、というものです。また時に日本文化の中では、世間様にご迷惑をおかけするようなことしたら申し訳ないという意識はありますが、迷惑にならなければ少々のことは何をやっても構わないという意識がありそうです。
罪意識とそれと一体の罪赦された喜びは、キリスト教徒にとってはどうでしょうか。意外と弱いのではないかと感じます。私たちが「赦し」を思うのは、何かのことで被害者になった時です。刑法上の被害者に限らず「あの人のせいでこんな辛い思いをしている」と思う時です。むしろこれは赦しを思うというより「赦せない」、むしろ「謝ってもらいたい」と思う時です。しかし相手にすれば多くの場合、それは誤解だ、そんな謂れのないこと勝手に押しつけないでもらいたい、という話になりかねません。その様なときに、自分の罪を認めたり、相手を赦したりすることが出来るのか。ほとんど出来ないのではないでしょうか。これはキリスト教徒にとっても難しい課題です。
今日の新約聖書は中風の人を癒す場面の所ですが、平行箇所では、神を冒瀆している、と主イエスを非難する律法学者が続けて言った言葉はこれです。「神、お一人の他に、一体誰が、罪を赦すことが出来るだろうか」(マルコ二・七)。主イエスは神ご自身ですから、当然、罪を赦す権威をお持ちなので、律法学者の避難は的外れなものだったのですが、人間の姿を語る言葉としては的を得ているとも言えます。私たちは、自力で、相手の罪を赦すことは出来ない訳です。
いや、神々だって出来ないのです。預言者ミカが語りました。 「あなたのような神が他にあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれる故に。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、全ての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ七・一八~一九)。真の神、十字架の贖罪を担いたもうキリスト以外には罪をお赦しになる神はおられません。
それなら、私たちの罪を赦したもうこのキリストの神を信じて洗礼を受けた私たちキリスト教徒はどうなのか、改めて考えたい。
ある証集の話です。自分の妹を収容所で亡くし、父親も連行される途中で死んでしまった人の証です。収容所のシャワー室の担当者であったドイツ人と戦後に出会う。自分は子どもの頃からずっと、ドイツ人を赦せなかった。でも自分はキリスト教徒だから赦さないといけないと思うようになったという記事です。アジアでは日本に対しても色んな感情があるでしょう。日本人を赦せない。傷がある。でもその傷のままで生活しちゃいけないんです。傷を神様に捧げて、赦すことが出来るように神様に祈らないといけない」(「証し」最相葉月。八八〇頁)。
私たちが罪を意識するのは、まず加害者の罪についてです。自分はその人のせいで深い傷を負わせられましたから。でももう一つ、その加害者の罪を赦せない自分の罪です。相手の罪を赦せない自分が作る傷。それを傷を神様に捧げて、赦すことが出来るように神様に祈らないといけない。どうすればいいでしょう。これが今日の主題です。
主イエスは、中風の者にこう宣言されました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタイ九・二)。中風の人を床に寝かせたまま主イエスの所に連れて来たその人たちの信仰を見て、そう宣言されました。ここで自分を、中風の者だと考えてみましょう。この自分をイエスの所に連れてきた人々がいます。この人々の存在が、中風の者の赦しにとって大事な働きをした訳です。
ここから今日の使徒信条の言葉を考えたい。使徒信条は、我は聖霊を信す。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、と続きます。「教会」と「罪の赦し」の仲立ちとして「聖徒の交わり」があります。相手を赦せない自分の罪、その罪に打ち勝って相手を赦すことは、一人ではなかなか出来ない。それはキリストの前で出来る。そしてキリストの前に出るのも一人ではなかなか出来ない。聖徒の交わりの中で出来る。聖徒の交わりは、人をイエス・キリストの所へ連れてくる、そのための交わりだからです。カルヴァンもこう記しています。「我々が教会の体の内に受け入れられ、また繋がれている限り、神の寛容により、キリストの功績に執り成され、御霊の聖化を通じて、我々の罪に対する赦しの恵みは、我々に対して為されたのであり、また日ごとに為されるのである。聖徒の交わりの内で教会そのものの務めによって我々の罪は絶えず、赦され続けるのである。我々は、神のみ顔の前に罪の赦しなしでは立つことが出来ない。この恵みは教会に固有なのであって、もし我々がこの交わりの内に留まらないならば、これを教授することは出来ない。またこの恵みは福音の説教、聖礼典の執行によって我々に分配されるものである」(綱要四巻一章二一、二二節)。長い引用になりました。罪を赦せない自分の傷の故に教会から離れてはならないということです。教会には、罪の赦しを説く説教や罪の赦しを分け与える聖礼典があり、このキリストの所に連れてくる聖徒の交わりの中で、罪の赦しは私たちのものになるということです。罪を赦す権威をお持ちのイエス・キリストから離れた所で、自分一人で罪を赦す中に生きることは出来ない訳です。もちろん、相手の罪を忘れることは出来ません。水の流して「解消」出来るほど、罪は軽くない。でも、「解決」に向けてそれを耐え忍びながら赦しの中に生きる道は、キリストの御前にあっては拓かれていると言えるでしょう。