日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年6月27日 説教:森田恭一郎牧師

「約束を受けている者」

創世記一四 ・一七~二〇
ヘブライ七・一~一〇

本日は、予定を変更して説教題をヘブライ書の聖句をそのままに「約束を受けている者」(ヘブライ七・九)として、自分の人生を、神様からの約束を受けている人生として見出すことを主題にこの一節に絞って説教したいと思います。

 

ご承知の通り一昨日奥村保さんが亡くなられ、本日午後に葬儀を執り行います。私は、葬儀では、ご本人に注がれた神様の恵みやお支えをその人生から見出すことを念頭に説教したいと思っております。今日も同じです。その意味では、説教準備するのは、もうお目にかかれない寂しさの中にありますが、恵み豊かなものです。私たちの心の中には奥村保さんのあのお姿、あの表情、あのお言葉が生きておりますけれども、今日の時点から言えば過去になった故人の人生を振り返って恵みを見出していきます。

今日、お棺を礼拝堂内に安置しました。保さんは、丁度その場所でソファーにお座りになって礼拝をささげておられました。お元気でした頃は、前から二番目の列の所に座って、毎週礼拝を大切にしておられました。今日は、何かご一緒にいるような気持ちで、お連れ合いのフク子さんも共に礼拝をささげることが出来まして幸いなことます。

 

さて、今、礼拝説教ではヘブライ人への手紙を順々に味いながら読み進めております。思えば、今日の七章の所も過去に恵みの事実があったこと見出している記述です。ヘブライ書の記者は、旧約聖書の中にキリストと自分たちを証している箇所があると気が付いた、見出しました。創世記にメルキゼデクという特別な大祭司がアブラハムに祝福をし、アブラハムは財産の十分の一をメルキゼデクにささげたという記事です。それは、それこそ特別な大祭司として私たちを祝福しているキリストと、感謝をささげる自分たちを見事に証しているではないか。感動している訳です。その感動を説明の言葉にして抑え気味に語る七章一~一〇節全体については、当初予定の既にお配りしました説教原稿をご参考にして下さい。

 

恵みの事実があったこと見出しているといえば、更にもう一つ、私たちの教会も実は同じです。

先週の長老会報告にもありましたように、会堂の扉が痛んできたので修繕、いや、新調することにしました。費用として百万円位はかかると思います。その際、以前、その扉の上の所に掲げてありました「栄光、神に在れ」の看板、表札も新しく新調することにしました。

アブラハムは十分の一をささげたくなる程に、祝福を受けたことが本当に嬉しかった、信仰が支えられたに違いない。それと同じように、かつて「栄光、神に在れ」 と掲げた会堂を見る皆さんは、何か嬉しく、信仰の支えられる喜びや感動があったのではないでしょうか。当時のことを知る皆さん、その喜びや感動を思い起こしてみて下さい。その過去の思いを新たに想起しながらこれからも「栄光、神に在れ」と、将来に向かって信仰を整え生きて行こう。長老会は、将来に向けて改めて踏み出そうと決意しました。教会の私たちみんなで、改めて一歩一歩、踏み出そうではありませんか。

 

今日、皆さんと共に思い深めたいことは、過去ではなく今現在の自分と自分の人生を、約束を受けているものとして見出すということについてです。今、目に見える自分や自分の人生は、場合によっては「今、とっても大変なんだ」とか、「何で人生、こんなことになってしまったのか」と思いたくなる状況、あるいは「こんな自分なんて」と思いたくなることがあります。人は特に、理不尽な不条理な事に巻き込まれると生きる意味があるのかと問い、また誰であれ死が近づくと何故死ななければならないのかと怯える。

ヘブライ書の教会の人たちも、時に迫害もあったあの時代です。信仰を捨てる思いにもなった人たちも大勢出て来た。そのような中で、「旧約聖書が過去からキリストを証しているではないか。しかもそれで終わらない。キリストは確かな希望を今生きる私たちに指し示しているではないか。あなた方は、キリストが確かにして下さった希望という最終地点を目指して生きて行っていいのだ」。ヘブライ書の記者は、この感動を味わいながら、今、これから生きていく確信と、それを支える信仰の確信を語ってやまない。

 

そこで、今現在の自分と自分の人生を、約束を受けているものとして見出すということについて、福音書の記事から味わってみたいと思います。今日選びましたのは、ヨハネ福音書、九章一節以下(一八一頁)。

ここに生まれつき目が見えない人がおりました。身体的苦労がある。日々の生活が不自由。仕事人もつけず道端に座って物乞いするしか社会生活は営めない。医者にかかっても治ることはなく、自分の人生、なんでこんなことになったのか。なんでこんな中で生きて行かねばならないのか。過去を振り返って誰のせいでこうなったかと、自分のせいか、親のせいか、これまで何度考えた事か。しかし彼の人生の過去を振り返って原因探しをしても何も解決しなかった。

理不尽な不条理の現実すっかり諦めて絶望していた彼が、この日はしかし、今まで考えたことも聞いたこともなかった言葉を耳にします。この人が今、目が見えないのは、これから、将来に向けてです。「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ九・三)。そして「シロアムの池に行って洗いなさい」。池までは一キロ以上行かねばなりません。しかも池は窪地にあって降りて行かねばならなかったそうです。彼は、そんな危ない思いまでして行った所で治る筈なんかないではないか、と思ったのだろうか。

道端に座っていた彼は立ち上がります。まだ目が見えた訳ではないのに、その現実を背負いながら、踏み出します。池に向かって歩み出します。何故、出来たのか。主イエスのお言葉「神の業がこの人に現れるためである」に約束を見出し、約束を受けたからです。そして希望を目指して今を歩んだ。約束を受ける前と受けた後の「人生の質」、その差は大きい。

この池までの道のり、言うならば、これが私たちの地上の人生だと言えます。時に地上の現実に押しつぶされそうになりながらも、しかし約束を受けて、約束のお言葉を日々思い起こしながら、約束された希望を目指して歩む。約束を受けた者として祝福を受けて歩みます。奥村さんの信仰者としての歩みもまた、この道のりであったと信じます。