日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2020年1月19日 説教:森田恭一郎牧師

「神様がご用のために私をも」

エステル記四・一三-一四
ヨハネ 一二・二三-二八

今から四ケ所の聖書を読みます。どの個所にも同じ言葉が出てきますので、よく聞いて、言い当ててみて下さい(聖句を記した画用紙を見せながら朗読)。

・「この時にあたってあなたが口を閉ざしているならユダヤ人の解放と救済は他の所から起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」。

・イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」。

・「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ」。

・さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

答えは、「時」です(画用紙のこの言葉に赤丸で囲みながら)。「時」というのは、神様がお決めになられた時です。そのことが普通に一番よく分かるのは、生まれる時、天国に召される死ぬ時です。誕生日、何故自分が百年前でなくこの時にお母さんのお腹に宿って生まれて来たのか、神様がお決めになったからです。天国に召される死ぬ時も同じですね。神様がお決めになった一番良い時に逝く。主イエスも、クリスマスの時にお生まれになり、十字架の時に亡くなられました。それは神様がお決めになったことです。

それでこの聖書の箇所では、神様であられる主イエスが世にいる弟子たちを愛し抜かれる「ご自分の時」と仰いました(ヨハネ一三・一、画用紙のその聖句に赤線を引く。以下同じ)。ご自分の時、これは神の御子、主イエスだから言える言葉です。そしてご自分の時のその内容を「栄光を受ける時」と仰いました(ヨハネ一二・二三)。栄光を受ける時というのは、これから神様の御心が実現する時、神様の御業が現れる時です。主イエスはこれらのことをまとめて「この時」と仰いました。

 

さて、主イエスはどうしてこの時が来たと受けとめられたのでしょう。それは、祭りのとき、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた(ヨハネ一二・二〇)時でした。それをご覧になって、イスラエルの民だけでなく、異邦人、外国人も含めた全世界の人たちが神様を礼拝するようになることを思い描かれました。このことの実現のために、全ての人々の罪を贖う十字架にかかる時が来たと、この時を受けとめられたのです。

もちろん十字架の時ですから。主イエスにとっても大変です。この時を前に「父よ、私をこの時から救って下さい」と言いたかった。でも十字架の時を受けとめて「しかし、私はまさにこの時のために来たのだ」(ヨハネ一二・二七)と仰いました。

 

さて、エステル記です。ペルシャの王様が、ユダヤ人を皆殺せとおふれを出しました。ユダヤ人たちは皆、震えあがりました。この時にあたって、これを止めさせることが出来るのは王様の妻、王妃だけです。それがエステルです。それで彼女の従妹であったモルデカイがエステルに言います。「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」(エステル記四・一四)。何のために生まれて来たのかと問いかけます。

王様の命令と正反対の事を申し出る訳ですから、王様のお怒りに触れたら殺されてしまうかもしれない。エステルとしても命がけです。でも結果は上手く行きました。それがエステル記の内容です。

 

私たちは、生まれてから天国に行く死ぬまでの間、自分の人生のその時その時、時時(ときどき)を生きています。その時時に、今という時は、御心が成るようにと神様が望んでおられる時なのだ、と自分の人生を受けとめて生きてみる。例えば、この私が何故生れて来たのか、それは「今日この時、君たちに聖書の言葉、福音の言葉を聞いてもらうために生まれて来た」と受けとめる。そのように自分の今日のこの時を受けとめながら生きる。皆さんも、自分の時を、御心の成る時として生きていきます。それは、主イエス・キリストのご栄光に仕える生き方にもなると言えるでしょう。