申命記五・一二-一五
マルコ二・二七
本日は十戒の第四戒です、安息日を守ってこれを聖別せよ。ある日を聖別する。神様のために特別に取っておくという事です。安息日と休日と何が異なるのか。先に結論を言えば、休日は自分のため、安息日は神様のために、そしてそれがひいては自分のためにもなる。こういう違いです。
安息日は、初めて耳にしただけでは意味の分かりにくい専門用語です。ですから、この十戒でも安息日の規定の説明文があり、しかも一番長い。本文だけでは何のために聖別するのか解りにくいからです。
その説明が一三節から続きます。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。しかもあなただけではない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
このように安息日を説明しています。七日目に休むということで、ユダヤ教は日曜日から始まる一週間の七日目の土曜日を安息日にしています。キリスト教は、イエス・キリストが甦られた日曜日を特に覚えてこの日を安息日に定めています。ここには安息日に休む理由が二つ。一つは、七日目は主の安息日であるから休む。そしてもう一つは、後半部分の説明の所です。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。導き出されたことを思い起こすために仕事を離れて安息日を守るのだと言っている訳です。
十戒を学び始めてから一つ確認してきましたことは、十戒の各条文は顕現句との関わりの下で理解しなければならないということです。この安息日の規定は、正にその関連性を語っています。私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。この顕現句は第四戒の説明文が言っている事そのものです。だから、このことを思い起こさなければならない。それで思い起こすことを集中的に出来るように仕事は休まなければならない。かつて自分の祖先は奴隷であったということです。奴隷は恐らく休みの日はありません。毎日毎日、来る日も来る日も、こき使われて奴隷として働かなければならない。その奴隷の家であるエジプトの国から導き出されて自由になり、今に至った。だから自由を大切に。
自由は二つの側面があります。一つは「何々からの自由」。休みなく働かされた奴隷状況からの自由の側面があります。これを思い起こす安息日ですが、それで終わるなら自由放任みたいなものです。そこで大事なのは、もう一つ「何々への自由」。私を解放して下さった神様を礼拝することへの自由です。出エジプトも奴隷からの解放のためにだけではなく、礼拝することに向けての出来事であったのですね。出エジプト記は礼拝をささげるための幕屋の建設の記事で終わっている。礼拝することの自由に向けて、あの解放の出来事があったと言っている訳です。
奴隷状況からの自由、今日の私たちは奴隷ではないから関係ないのであろうか。いや、今日でもきっと様々な奴隷状況があるのだろうと思います。受験の奴隷状況とか色々ありますが、何よりも私たちは罪の奴隷になっています。その罪からの自由の課題があります。私たちは月曜日から土曜日の週日、罪の業を生きているとも言えます。だから安息日はそれを一旦中断するという意味があると言われたりもします。安息日、礼拝する日がなかったら、私たちの罪人としての営みがずうっと続くことになります。このあたりのことが、顕現句との関連で思い起こしたいことであります。
主の安息であるから、いかなる仕事もしてはならない。神様が創造の御業に於いて六日間仕事をなさり、そして七日目は休まれた。だからあなた方も休む。七日目で一区切りというリズムがある。その神様のリズムを人間の生活の中に取り入れる。七のリズムは聖書から出て来るリズムだそうです。音楽にも七拍子は普通はありません。
七のリズムで安息日があるとはどういうことを意味するのだろうか。逆に安息日がなかったらどうなるのだろうか。年がら年中、毎日奴隷。生まれてから死ぬまで、毎日の生活が奴隷。生きている限りそれが永遠に続くような感じになってしまう。そこにリズムが生じる。六日間は働かなければならないけれども、それが永遠に続くのではなく七日目は休む。それは安息日から始まって一週間を過ごし、安息日に向かって一週間を過ごしていくということです。時間の始まりと目標が定められた。もしこの始まりと終わりがないと、同じ事が永遠に続く時間の概念、それに基づく生き方になる。輪廻転生というような理解になります。人生、もちろん生まれていつかは死ぬ訳ですが、死んだ後、生まれ変わってまた生きる。それが永遠に続く。図形に表すと、グルグル回っている。春夏秋冬、四季の移り変わりのように円環になっている。ユダヤ教やキリスト教はそうは考えない。一回限りの人生。直線です。
大阪には、大阪環状線があります。環状線ですから電車はグルグル回る。東京の山手線も同じ。でも大阪と東京は違う。河内長野から南海線に乗って新今宮で乗り換える。弁天町を経由して大阪の方へ行くために電車に飛び乗って間に合ったと思ったら、JR難波行きだったりする。あれ? 環状線ではなかったか? 逆方向も。新今宮から玉造の方へ行こうと電車に乗ったら、この電車は紀州路快速和歌山行きですとか、関空快速ですとか、大和路快速ですとか言って、全然環状線ではない。環状線ではないというのは、始発駅と終着駅があるということです。初めと終わりがある。図形としては直線。環状線に直線の電車が走っている。ややこしい。
私たちの人生の時間も、実感は円環的で春夏秋冬で回っているだけのようでありながら、実はそこに直線が入って来る。初めと終わりがある時間を生きている。目標に向かって人生がある。それを示すのが一週間のリズムがあることの意味です。
そして神様が七日目は休まれたという創世記の出来事、その七日目、神様は休まれてぐうぐう寝ていましたというのではありません。神様は安息なさった。この日に神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された(創世記二・三)。一日目から六日目まで創造なさった被造物をご覧になってこれは良いと祝福して下さいました。それが七日目の神様の安息でありました。このように安息日に神様は被造物に祝福を以て関わっておられます。
本当は神様こそ、永遠のお方でありますから、初めも終わりもなく、その意味ではリズムのないお方なのです。その神様が敢えて七日間というリズムのある時間をお造りになり、初めと終わり、創造と完成を造られました。
今日、教会学校ではエレミヤ書を読みました。神様がエレミヤを預言者として召し出すのですが、躊躇するエレミヤにこう告げられます。しかし、主は私に言われた。「若者に過ぎないと言ってはならない。私があなたを、誰の所へ遣わそうとも、行って、私が命じることを全て語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」(エレミヤ一・七-八)。主が救い主としてエレミヤに関わって下さったことにより、エレミヤは、円環の営みから救済の歴史に生きる者となります。私たちは存在として人体がある。そして歴史としての人生がある。クリスマスの時に、永遠のキリストが肉となって、インマヌエル=神我らと共にいますお方としてお出でになりました。私たちを救い出し、祝福をお与えになり、グルグル回っているだけでない目標ある人生にします。
それを受ける人間の側は、神様との間に人格関係を与えられ、人は神と共に生き、救済の歴史の中に自分の人生を位置付けることが出来るようになりました。せっかく大阪にいるのですから、私たちはただ環状線の中に生きているのではない。終着駅に向かう電車が入って来る。エレミヤの所に神様が入って来られた、我々の世界にキリストが入って来られた。世界はそこで世界史となり、私たちの存在は人生となる。その歴史の目標に祝福と救いの完成が備えられている。このことを安息日にいつも先取りしながら確認していきます。
終わりに主イエスのお言葉。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ二・二七)。当時、安息日が厳守された。礼拝をささげるために仕事はしない。それが高じて安息日には病を癒してはいけない、穂を摘んではいけない、みんな規定違反だといつしか規定そのものが目的になり、まるで人が安息日のためにあるようになってしまった。そこで、安息日の規定が主人なのではなく、人の子が安息日の主でもある。このように主イエスは礼拝の対象としてのご自身を明確にされたのでした。安息日は、主イエス・キリストに礼拝をささげる日です。