日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年10月21日 説教:森田恭一郎牧師

「神の国の宴会に」

イザヤ書55章1~2節
ルカによる福音書14章15~24節
ぜひ礼拝にお越し下さいと私たち教会の招きを受けて、皆さんはここに集まって来られました。そしてご一緒に礼拝をささげることが出来ます事をとても嬉しく存じます。
今日の聖書の個所は、ある人が盛大な宴会=食事会を開きたいので、そこに多くの人たちを招いたという記事です。
主人はきっとコックさんに言いました。コックさん、とびきり美味しい料理を作って下さいね。それから召使に言いました。大勢お招きできるように、テーブルも沢山整えて下さい。それから、楽しい雰囲気になるように飾りつけもして下さいね。宜しく準備お願いしますよ。招待状も出しました。主人は、ウキウキと喜んで準備を始めました。
そして準備が整いました。美味しい食事、沢山のテーブルに綺麗な飾りつけ、あとはみんなが来るのを待つだけです。そこで招待状を出しておいた人たちをお招きすべく、僕が出かけて行って呼びかけます。「もう用意ができましたから、おいで下さい」。

でも、招待状を送った人たちの所に僕が行ってみますと…、みんな、断ってきました。理由は夫々あります。最初の人は「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させて下さい」。他の人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行く所です。どうか、失礼させて下さい」。また別の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことが出来ません」と言います。せっかくお招きしたのに、みんな断ってきました。
旧約聖書イザヤ書にありましたように「銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(五五・一―二)。「銀を払うことなく食事していいのですよ、参加費無料。お返しも要りません。恵みとしてお招きしますから」。私に聞きしたがって私の招きを受ければ、善いものを、美味しいものを食べることが出来るのに、そうしたらお腹も一杯になるし、あなたたちの魂も心も、その豊かさを楽しむことが出来るのに…。

みんな断ってきたので、主人は怒ってしまいました。何故みんな来ないのだ。それで主人は僕に言いました。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」。僕は、急いで町に出て行き「ご主人様がお招きです。もう用意が出来ていますからどうぞお出で下さい」。貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人たちです。「えっ、こんな私が、ご主人様の食事会に行っていいのですか」。「どうぞ、どうぞ」。それで大勢の人がやって来ました。
そうやってみんな席に座ってもらったのですが、まだ空いている席があります。僕が「御主人様、仰せの通りに致しましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言いました。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」。
最初、招待状を出してお招きした人たちが断わってきました。それで次に、町に出て行って、貧しい人、体の不自由な人などを連れて来ました。それでも席が空いているので、三度目には、通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来ました。主人はそうやって人々を何度も招きました。主人が一生懸命、招いていることが分かります。

今お開きの聖書の右の頁、ルカ福音書一三章三四節「エルサレム、エルサレム」と呼びかけて、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか」と書いてあります。みなさん、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、をイメージ出来ますか?
(雛の絵を掲げて)雛がもし、親元にいないで雛たちだけであっちに行ったり、こっちに行ったりして遊んでいたら、この雛たちはどうなってしまうでしょう? 猫が「雛がいるぞ、かわいいな、美味しそうだな」と思ってそろーりそろりと近づいて来るかもしれません。猫、山の中ならキツネがいるかな、タヌキがいるかな。大変です。食べられてしまいます。猫だ、キツネだ、タヌキだ!
(親鳥の絵を掲げて)急いで親鳥、お母さん鳥の所に戻って羽の下に隠れます。そうしたら猫がいても、キツネがいても、タヌキがいても大丈夫。お母さん鳥がいるので、猫も来ません。キツネも諦めます。タヌキも親がいるんじゃ駄目だ、あっちへ行ってしまいました。お母さん鳥が、もう大丈夫よ。そうしたらひよこは、羽の所から顔を出して、お母さん、もう大丈夫だね、良かった、良かった。これが「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」ということです。羽って、空を飛ぶためだけにあるのかと思ったら、そうではない。雛を羽の下に隠して猫やキツネやタヌキから雛を守るためにもあるのですね。

これと同じように主イエスは「私はお前の子らを何度集めようとしたことか」と言って下さいます。どうして、それほどにまでして、主イエスは私たち一人ひとりを羽の下に、御翼の陰に集めようとして下さるのでしょう。
それは、用意した美味しい食事が余ってもったいないから、ということもあるでしょう。二四節に「私の食事を味わう」とあります。他にはない特別な食事です。だから是非食べて欲しい。けれど、それだけではありません。せっかく招いたのにみんなが来てくれない。そのことが分かったときは怒りました。でも、その次に悲しくなったと思います。それで本当はどうしたかったのだろう。それで聖書を改めてよく読んでみると、二三節に「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」。みんなと一緒にいたいのですね。元は「この私の家を一杯に」と書いてあります。この私の家を一杯にして、私の食事をみんなと一緒に味わいたいのだ」。なのにみんなどこか行ってしまうなんて、悲しい…。

皆さん考えてみて下さい。先程、この雛たちが羽の下に隠れたのは、こちらの羽だけでした。これだけでは寂しいし悲しいですよね。だから、私の家を一杯にしてくれ、というのです。それで無理やりにでも連れて来て、どうしたかというと、(別の雛たちの絵を掲げて)、もう一方の羽の下にも一杯にしないとね。親鳥としては片方の羽だけでは寂しいなあ。両方の羽の下にいるとみんなが一杯いてくれて親鳥も嬉しいなという気持ちになります。
それなのに来てくれなかったら、怒りたくもなるし悲しくもなりますから、この時主イエスは、このお話を語りながら決意を新たにされました。一人も漏れなく招く決意です。参加費無料、ただだから、恵みだから、この恵みの中にみんなを招こう。「えっ、私なんかでもいいのですか」と思う人も遠慮なく来られるように、主イエスは十字架にかかる決意を新たにされました。誰でも私の家=教会に来られるようにと、この物語をお話ししながら、十字架にかかる決意を新たにされたのでした。
「この私の家を一杯にしてくれ」。これが神様の御心です。だから教会は「今日もどうぞいらして下さい」と皆さんをお招きします。教会が一杯になるように、皆さんが神様の下に一杯集まるようにお招き致します。そして、主イエスの喜びが一杯になります。

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