日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年2月7日 説教:森田恭一郎牧師

「神の右、執り成しの座」

出エジプト三 ・一四
ヘブライ一・一~三

神は、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。先週は、だから御子によって聴こう。そして、神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました(ヘブライ一・二)というのですから、神は天地創造の前から私たちを愛することをお決めになり、それで私たちは地上に命与えられ、そこから実は神のご決意から私たちの人生は始まっていると申し上げました。

この二節の後半から三節の言葉は、当時の教会の信仰告白だったのではないかと言われております。それは、神様の御業を告げる御子の救いの物語、あの時の十字架だけでなく、現在もなお執り成して下さる御子の救いの物語を告白する文章です。もう一度、神は、この御子を万物の相続者と定め、これは天地創造の前の神様の永遠の昔のご決意を語ります。また、御子によって世界を創造されました。御子によることなくただ世界が造られただけなら、この世界に愛はなかったに違いありません。

また御子によって明らかになった神様を語ります。神のお姿が実際どのようなものであられるのか、私たちには分かりません。そのような私たちにこの信仰告白は語ります。御子は、神の栄光の反映であり、と。神の栄光の反映と訳されておりますが、御子の外側で輝いておられる父なる神様を反射しているだけというのではありません。聖書の新しい訳では神の栄光の輝きでありと訳しています。御子ご自身が輝いておられる。そして、

御子は神の本質の完全な現われであって、と告白します。神の本質の完全な現われですから、イエス様を見て御子を見る。御子に出会い、御子によって、神様と出会う。主イエスが「あなた方に平和があるように」と手と脇腹をお見せになった。

まだ天に戻られる前でしたが「平和があるように」「信じない者にではなく信じる者になりなさい」と弟子たちにもトマスにも、既にここで、主イエスは執り成しをしておられるとも言えます。その時トマスはこう応えました。「我が主、我が神よ」。甦って来られたのは本当に主イエスだ、というだけなら、「我が主、我がイエスよ」で良かったはず。でもそれ以上の輝きとその本質の現われをトマスは経験した。「私はある、私はある」(出エジプト記三・一四)という主の存在感の迫りを感じ取った。「そうだ、イエスは『我が神』であられる」。父なる神様は私たちには見えません。でも、御子は見えない神の姿(コロサイ一・一五)。トマスは見えない神の姿を主イエスに見出した。

 

そして、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。これも理屈よりは、御子との出会う中で、自分が支えられているという体験をしたから、この告白になった。

その体験とは何か。続く告白文にあります。人々の罪を清められた後、言うまでもない十字架による贖罪愛を受ける体験です。それから、復活、甦りのことは直接には語りませんが、その後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。これも言うまでもないことですが、父なる神の右の座にただ座って休んでおられるのではありません。パウロも語りました。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さる(ローマ八・三四)。今も働いて執り成しておられる。

このようにこの信仰の告白文は、御子の救いの物語を高らかに告げます。神の側の救いの物語が、私たちの側の人生の物語にどう関わるのか、特に今日は、執り成されることの恵みの観点から、味わいます。

 

話は飛びますが、以前友人から聞いた話を紹介したいと思います。「九十歳を超えたある夫人が、こう言い始めた。『仏壇の中の主人の写真が怒っている。昔、私は主人に冷たくした。拒絶し、無視した。だから主人は怒っている』。それを聞いた娘さんが『悪いのはお父さんよ。飲んだくれて、お金も入れず、お蔭でお母さんは苦労のし通しで、小さなお店を切り盛りし、やっとの思いで私を育ててくれた。お母さんはちっとも悪くない。それを私が一番よく知っている』。けれどもこの夫人は、その後入院し、結局立ち直れないまま息を引きとった」。

この話を紹介してくれた友人が解説をしてくれました。「不甲斐ない亭主。だが、ヤケになって飲んだくれている亭主の孤独を、夫人は一人遺されどこかで感じていた。今になってあの淋しさが分かる。もう少し優しくしていれば、あの人も…。このご夫人が一生懸命やって来たのに、何故かどこかで歯車が狂ってくる。矛盾に満ちた人生の哀しさ、そんなこの夫人の気持ちが感じられて哀しかった。『魂の痛み』、誰がこれを癒せるのだろう…。イエス様は『あなたの罪は赦された』と言われる。病を治すよりもっと重いこと。人の深い根源的な問題、魂の痛みに『子よ、心安かれ』と宣言するイエス様の言葉を、私も最期の時には自分のものとして受け取りたいと思っている」。以上のように友人が信仰の思いを語ってくれました。

「魂の痛み」。誰がこれを癒せるのだろう…。重い問いかけです。神の右に座しておられる御子はこの主人のことも夫人のことも娘のことも「平和があるように。あなたの罪は赦された」と執り成して下さっています。その執り成しを受け取るなら、魂の痛みは癒されていくのではないだろうか。

 

ここでステファノのことを思い起こしたい。彼が殉教の死を遂げる時に見たことは何であったか。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った(使徒言行録七・五四~)。主イエスは神の右の座に座っておられるのではなく、殉教するステファノを前に立ち上がって、執り成しておられる。

主の執り成しのこのお姿を見て彼が言い遺した言葉は二つ。一つは「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」。人生の最後に神に向かって告白する言葉は何だろうか。「私の霊を委ねます」。これは主イエスから「あなたの罪は赦された。安心しなさい」と執り成してもらったからこそ応えることの出来る魂の平安の言葉です。

ステファノはもう一つ、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。彼はなんと、自分を迫害する者のために執り成しをしました。彼の最期の言葉が、相手を取り成す赦しの言葉になりました。思えば、殉教という特別な場面でなくても語り得る、相手を赦す言葉です。あるいは「あなたたちが私の家族でいてくれて良かった」とか、「あなたが私の友人でいてくれて良かった」とか、これも広い意味で執り成しの言葉になるのではないでしょうか。それまで色々あっても、最期、こちらから赦しを乞い、また、相手を赦す思いの中で語り得る言葉です。お互いを受けとめ合い、喜び合う言葉になると言っても良いでしょう。

聖餐の恵みに与ります。聖餐は、神の右におられる主イエスの執り成しを戴くことと言えます。聖餐の執り成しの恵みを受けて、私たちが今度は執り成し合う中に魂を置くときに、「魂の痛み」は癒されるに違いありません。