日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年2月21日 説教:森田恭一郎牧師

「神さまをほめたたえよう」

詩編一〇六・四八
黙示録一九・一~四

今日は教会学校の教案誌カリキュラムに従って、ヨハネ黙示録です。黙示録を二回連続で味わうことになりました。そしてカリキュラムの主題は主の祈りの「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。ここに思いを深めます。

ヨハネの黙示録、今日の終わりの所、礼拝をささげる者たちが言いました。「アーメン、ハレルヤ」(黙示録一九・四)。「アーメン」はお祈りの終わりにアーメンと唱えたりしますが、どのような意味だか皆さんご存知ですね。「まことに、そうでありますように」と賛意を表す言葉です。それでは、「ハレルヤ」はどうでしょう。それは、「神様をほめたたえよ」。神様を賛美する言葉です。

 

この言葉が最初にも出てきます。「ハレルヤ」(黙示録一九・一)。神様をほめたたえよ、最初にハレルヤと言ってそれから、「救いと栄光と力とは、私たちの神のもの」の言葉が続きます。ですから、救いと栄光と力とは神のものというのは、神様をほめたたる言葉です。

そしてこれは、主の祈りの「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」にそっくりです。だから主の祈りの終わりのこの言葉も、神様をほめたたえる祈りの言葉なのですね。

比べてみると、主の祈りの「国」が黙示録では「救い」となっています。「御国」のことです。御国が来た時、この世の国々が神様のご支配なさる御国になります。御国では「救い」が実現します。

それから主の祈りの「力」は、黙示録では順序が三番目ですが意味は同じです。この力は腕力の力、パワーというより、神様が「こうだ」と言われれば「こうなる」、神様が「光あれ」と仰るとそこに光があることになる、神様が「こうだ」と仰れば、みんな、「はい、こうしましょう」と従う権威、オーソリティです。そういう権威の力です。

それから主の祈りの「栄え」は、黙示録では「栄光」。同じです。栄光と言うと光り輝いている様子を思い浮かべますが。単なる外見というより、神様そのものが栄光、栄えです。神様が神様としておられる、それが現れることこそが栄光です。

 

さて、黙示録はヨハネが幻を見聴きした光景を描いていますが、この一九章でもヨハネは幻を音声で聴き取っています。その後、私は、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた(黙示録一九・一)。その大声のようなものが、「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、私たちの神のもの」と神様をほめたたえている。天上の空間一杯に響き渡り、賛美のほめ歌となって、まるで空の彼方から溢れこぼれてくるように聞こえて来る。覆いかぶさって来て、その響く大きな歌声に包まれる経験をする。それが大群衆の大声のようなもの。天使の歌声でしょうか。天使の数は万の数万倍、千の数千倍(黙示録五・一一)。それが大群衆の大声のようになって響いて来る。大群衆が文字通り人間なら、私たちも将来、その大群衆の一員になって一緒に歌っている。その御国の完成の光景をヨハネは見聞きし、黙示録に書き記して、今、私たちの手元にある訳です。

神様がほめたたえられている。天使たちが、全ての人たちが、全被造物が、神様を、そして小羊なるキリストを、聖霊なる神様を一体の方として、ほめたたえている。実に壮大な光景です。

加えてヨハネが見たのは、地上を堕落させたあの大淫婦(黙示録一九・二)が裁かれて滅んでいく様子です。大淫婦とは、当時、教会を迫害したローマ皇帝のことです。もっと広く言えば、キリストの十字架と甦りの救いを信じないで神様をほめたたえることが出来ない不信仰のことです。それが裁かれていく。私たちの中にも信仰と不信仰が入り混じっていますが、不信仰が裁かれて全き信仰となって、神様をほめたたえるようになる。

イスラエルの神、主をたたえよ、世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ(詩編一〇六・四八)。それはイスラエルの民だけでなく異邦人たちも、全ての民もみんなです。

更には、万物までも、礼拝をささげ神様をほめたたえます。栄光は全地を満たすのですから万物の礼拝です(詩編七二・一九)。万物も栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ。アーメン、アーメンですね。とこしえにいつまでも続く終末の完成における万人万物の礼拝の光景です。そこでは「アーメン、ハレルヤ」と神様をほめたたえている。  この壮大な天の光景を地上の私たちも、黙示録を通して、教会の礼拝のこの場所から、覗き見て、仰ぎ望んで、今日一緒にほめたたえている訳です。