日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年9月27日 説教:森田恭一郎牧師

「神からの知恵」

詩編  一一一・一〇
ヤコブ 三・一~一八

今日は「目標(夢・理念)、方法(手段)、担い手、実現」に思いを馳せます。もっともヤコブ自身は三章では小見出しにもありますように「舌を制御する」ことを主題にし、舌を制御するために上から出た知恵が必要であると述べています。

 

まず一段落目から味わいます。私の兄弟たち、あなた方のうち多くの人が教師になってはなりません。私たち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなた方は知っています(ヤコブ三・一)。律法学者たちなどの教師について主イエスは「彼らは、言うだけで実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうとしない」(マタイ二三・三~)と指摘なさいました。言葉と行為の問題ですが、今日のヤコブ書は、舌が制御されず言葉が本来語るべき内容から離れることを指摘しています。

そして人間の実際を厳しく見ています。私たちは皆、度々過ちを犯すからです(ヤコブ三・二)。ここから自由な人はいません。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です(同)とありますが、自分の全身を制御できる完全な人はいません。心の中にあるものが口をついて出て来るからです。単に舌を制御すれば済む話ではありません。ヤコブは続けて、大きな馬を御するのに体の一部の鼻と口につけるくつわを用い、大きな船を操るのに最後尾の舵を用いる例(ヤコブ三・三~)を引用しますが、ただ、馬にはくつわがあればいい、船には舵があればいいと言っているのではありません。むしろ、くつわの用い方次第で暴れ馬になるし、船も舵の用い方次第であらぬ方向に行ってしまう。人間も同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです(ヤコブ三・五)。心の内にあるものが、語る人の人格歪め、あるいは相手の心を傷つけてしまう訳で、舌を操る教師の責任の重さを語っています。

 

第二段落目は、教師に限らず私たちに対象を広げて舌の問題を取り上げます。舌を制御出来る人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています(ヤコブ三・八)。ここでも人間の実際を厳しく見ています。舌を制御出来ないとどうなるか。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです(ヤコブ三・九)。一種の二枚舌です。その口から賛美が出て来るのですから、ヤコブは教会の人たちのことを念頭に語っています。それで、私の兄弟たちと呼びかけます。そしてこのようなことがあってはなりません(ヤコブ三・一〇)。あってはならないし、あっていいなどと私たちも思いませんが、賛美と呪いの言葉が一つの口から出て来る。現実には起こることです。このようなことがあってはならない。結果として出来るかどうかということより、また、どうせ出来ないと開き直ることよりも、大事なのは、あってはならないことだと方向性、目標を見失わないことです。

 

舌を制御することを目指して必要なことは知恵(ヤコブ三・一三)、しかも上から出た知恵(ヤコブ三・一七)であるとヤコブは語ります。人生訓・処世訓のような、この世の人間の経験から来る人間の知恵ではなく、神からの知恵です。この知恵を私たちはどうやって学び、神の知恵を以て心の中を満たすことが出来るのでしょうか。

それは主イエスに学びます。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる(マタイ一一・二九)とお語りになりました。その「私」=キリストのお姿をヘブライ書はこう描いています。キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとを捧げ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました(ヘブライ五・七)。キリストのこの神を畏れ敬う態度、ここから私たちは上からの神の知恵を学びます。

旧約聖書も幾度となく、主を畏れることは知恵の初め(詩編一一一・一〇)と告げてキリストを証ししています。主のお姿を繰り返し心に刻み、神を畏れることを学ぶ。この神を畏れる知恵を学び心の中に満たして初めて人は舌を制御出来ます。

 

さて、最初に申し上げました「目標(夢・理念)、方法(手段)、担い手、実現」について考えます。

ヤコブは命じます。あなた方の中で、知恵があり分別があるのは誰か。その人は、知恵に相応しい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい(ヤコブ三・一三)。示しなさい、と言うのですが、どうやって示せるのでしょう。

先程、馬と船の話(ヤコブ三・三~四)がありました。馬を意のままに動かす。船を意のままに操る。意のままにというのが、何のために動かし操るのかという目標を暗示しています。行き先に行くという目標があり、それを実現するために、馬を用い船を用いる。馬や船は目標実現のための方法・手段です。馬を御する人、船を操る船員、これが担い手です。この担い手が手段を使いこなしついには行き先に到着し目標を達成します。

先程、詩編を読みました。主を畏れることは知恵の初め。これを行う人は優れた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。知恵の内容は主を畏れることです。「栄光、神に在れ」です。これが最終目標です。主を畏れ神に栄光を帰す。そのための方法・手段はこの詩篇では賛美です。これを行う人、担い手が賛美を歌う私たち信仰者です。その結果、私たちに実現することは、優れた思慮を得て、優れた礼拝者、神を畏れる者になるということです。私たちの口は人を呪う口ではなく主を賛美する器となります。詩編はその賛美、礼拝が代々に亘って永遠に続くことを夢見ています。神様に実現することは永遠に栄光が帰せられるということです。

 

教会はこのように、神を畏れ栄光を神に帰す全うな目標があり、それを実現するための健全な賛美・礼拝、そしてもう一つ加えるなら働きがあり、その担い手としての私たちがいる。その結果、賛美が永遠に続く。神の栄光をたたえる礼拝が代々に亘って実現していく。

これは更に、教会だけではありません。私たち個々の人生にも実現します。先程の御言葉をもう一度、その人は、知恵に相応しい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

神を畏れ栄光を神に帰する。これは私たちの最終の人生目標、人生理念でもあります。神の栄光を現わしていく私たちの手段は、賛美・礼拝と共に、私たちの立派な行いです。日々の生活です。担い手は私たち一人一人です。「立派な行いを」と言われると、私には出来ませんと言いたくなる所ですが、忘れてならないのは、その都度、目標に方向を定め目標に向かって進むことです。神を畏れる心があれば、知恵に相応しい柔和な言葉や行いが、日々の生活の自分の唇や生き方に、滲み出てくるはずです。「神に栄光あれ」この目標・理念が私たちの生活に現れ、そして実現していきます。

一七節以下も同じです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和の内に蒔かれるのです。日々の営みにおいて、神を畏れる知恵を繰り返し心に刻みます。すると、純真、温和、優しさ、従順が日々の生活に滲み出て、この社会に在って平和を実現する一人ひとりになるとヤコブは語ります。私たちは種を蒔いている訳です。

祈り

父なる神様、「栄光、神に在れ」。これを教会の理念=目標として改めて受けとめさせて下さい。全身を以てささげる礼拝、唇を以てささげる賛美を教会に満たして下さい。今、礼拝に皆が集えず満たせないでいることを、主よ、憐れんで下さい。

「栄光、神に在れ」。一人ひとりの最終の人生目標=人生理念として自覚させて下さい。この目標=理念がなかなか身に付かず、心の中にある自分中心の思いが口をついて出てくる私たちを、主よ、憐れんで下さい。

上からの知恵には、憐れみと良い実、義の実が満ちて、目標が成就していることを感謝します。主よ、これからも毎週の礼拝と日々の祈りに於いて、あなたの目標・理念の内に私たちを招き入れ、あなたを畏れる知恵、その霊性を私たちの心の中に育んで下さい。栄光があなたに帰せられますように。