日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年11月7日 説教:森田恭一郎牧師

「祝福の源として歩み出す」

創世記 一二 ・一~四
ヘブライ一一・八~一二

望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する(ヘブライ一一・一)信仰によって生きた旧約の人たち、今日はアブラハムとサラです。    ヘブライ書は、アブラハムのことをこう書き始めます。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです(ヘブライ一一・八)。今日は、そこへと出て行くように召し出されて信仰によって生きるようになった土地とはどこかということに思いを馳せます。が、それに先だってまず、信仰によって生きたそのスタートは何か、確認しておきたいと思います。それは、召し出されること、呼び出されることからです。           思えば私たちは皆、召し出されて教会に来るようになり信仰を与えられた者です。そして教会は「恵みにより召されたる者の集い」(信仰告白)です。神が召し出して下さるのは実は、天地創造の前に神が私たちを愛して(エフェソ一・四参照)下さったその時から始まっているのですが、それを地上に生きる私たちが自覚して受けとめたのは、信仰与えられた時です。私たちは皆、呼び出され召し出され招かれて教会に集う者とされた。      私たちはそれぞれ自覚したきっかけがあるでしょう。アブラハムについても、あるキリスト教思想家(森有正)は「内的促し」と言ったりもしますが、ヘブライ書は我々の側のきっかけには触れず、神が召し出して下さったことのみを語ります。                         さて、召し出された先はどこか、今日の主題に入ります。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くことになります(八節)。この土地はどこか?     日本語の訳のことを二つ触れておきます。まず、ここに記されている「土地」という用語は、「場所」という意味合いを持つ単語です。ですから、地面、大地とは限りません。ですからこの場所は色々あります。約束されたもの(九節)であり、あるいは神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都(一〇節)でもあります。そして更には約束をなさった方は真実な方である(一一節)という人格存在=神ご自身にもなります。アブラハムを召し出された神ご自身が、アブラハムの召し出される場所になります。一方、信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み(九節)の「地」は、いわゆる土地です。どの土地かと言いますとアブラハムの場合は「カナンの地」です。    もう一つ日本語訳のこと、「住む」という単語です。約束の地に住み(九節前半)。これは「滞在する。寄留する」という意味合いのある言葉です。約束のカナンの土地に滞在、寄留したとなります。それから一緒に幕屋に住みました(九節後半)。これは「定住する」という意味合いがあります。一緒に幕屋という場所に定住した、となります。                          改めて、召し出された場所はどこか? アブラハムは行き先も知らずに出発しました。行き着いた約束の地=寄留地はカナンの土地でした。    ここで恐縮ですが私のことを例にしてお話します。五年余り前、私がお招きを受けた場所は河内長野教会でした。河内長野という土地は、それまで見たことも行ったこともない知らない土地でした。家族にとっても同じです。私たちにとっては寄留地、滞在地です。事実、地域の方たちから見れば一時滞在するよそ者、仮住まいの者(一三節)でしかありません。でも河内長野教会という召し出された場所は、私たち家族の定住する幕屋になります。幕屋というのは礼拝をささげる場所です。礼拝をささげるこの場所から、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望し、約束なさった方は真実なお方であると仰ぎ望みます。                         アブラハムはカナンの土地に外からやって来た寄留者として滞在しつつ、幕屋に定住しました。皆さんはどうですか? 河内長野に外からやって来られた方は、アブラハムと同じです。けれども、河内長野は自分の生まれ育った故郷(ふるさと)であって、自分は短期滞在しているだけの寄留者ではないという方も多くおられますね。こういう皆さんにとって、アブラハムの故郷を離れて天の故郷を目指す物語はどうお感じになりますか?    結論は、アブラハムも外から来た者も、ここで生まれ育った者も同じです。河内長野という土地に寄留しつつ、教会という幕屋に定住している。この定住している教会という幕屋の場所で、天の都を待望し神を仰ぐように招かれ、信仰を与えられます。河内長野という滞在地で信仰によって生きているということです。生まれ育った故郷に滞在して仮住まいしながら、幕屋であるこの教会が、ここから天の故郷を待望する定住地になっている。                         ヘブライ書のある注解者は巡礼を思い浮かべています。フランスからスペインの聖ヤコブ大聖堂までの長い旅の道のり。巡礼者たちが厳しい彼らの旅の終わりに近づくと、はるか彼方にある長く探し求めた大聖堂の尖塔を見ようと、必死になって地平線に目をこらします。そして尖塔が見えたとき、こう叫んだ。「何という喜び」。       巡礼の記事を読みながら思い起こしたのは、ミレーの描いた「晩鐘」という題の絵です。二人の夫婦が夕日に包まれ一日の農作業を終わって畑で祈りをささげている光景を描いたものです。よく見ると、畑のはるか向こうの方に、教会の尖塔が見える。その土地は毎日農作業に従事する生活の場ですが、教会の尖塔の光景を心に刻む土地です。敢えて巡礼の旅に出なくても、この土地での日々の生活において巡礼しつつ、夕暮れの祈りにおいて巡礼の喜びを味わう。そう思うと、河内長野の土地に住み、ここで生活を営む私たちも同じです。                         神様はアブラハムに語りました。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族は全て、あなたによって祝福に入る」(創世記一二・一~)。そしてアブラムは、主の言葉に従って旅立った。主の言葉に従って、行き先も知らずに望んでいる事柄を確信して旅立つ姿に、ヘブライ書はアブラハムの信仰によって生きる姿を見ています。                              創世記の記事は信仰によって生きるアブラハムの姿をもう一つ描いています。それは、祝福の源となって生きる姿です。これはイサク以後の子孫に対して祝福の源となりましたが、それだけでなく、滞在者でありつつ地元の人たちに祝福の源として祝福を祈り続ける姿でもあります。ソドムとゴモラの人々が滅ぼされようとした時、アブラハムは執り成しをしました。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、町をお赦しにはならないのですか」(創世記一八章後半)。 赦しも祝福の一つのあり方です。         これはイエス・キリストを証する姿でもあります。何故なら、主キリストこそ罪を赦し、祝福をもたらす 永遠の救いの源(ヘブライ五・九)だからです。キリストこそ、天の故郷から、この世の土地、異教徒の土地にお越し下さって、十字架の救いの祝福をもたらした救い主です。        私たちは聖書の言葉と聖餐からこの祝福を戴きます。そして戴き放しで終わらない。私たちも、キリストからの祝福を以て、教会員同士だけでなく、街中でお目にかかるどなたに対しても祝福を祈る。見える形であれ心の中での隠れた仕方であれ、祝福の源となって執成しに生きる。それは信仰によって生きてこそ歩み出せる私たちの姿です。

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