日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年5月6日 説教:森田恭一郎牧師

「祝福しながら、天にあげられた」

民数記6章22~27節
ルカによる福音書24章50~53節
今日は祝福を巡って思いを深めます。主イエスが、クリスマスのご降誕から、十字架と復活を経て昇天なさるまでの地上の営みの最後、その仕上げ、締めくくりとして為さったことは、両手を上げて祝福されたということです。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられました。今週の五月十日木曜日、教会の暦では昇天日になります。
「終わり良ければ全て良し」という言い方があります。途中何があっても失敗や辛いことがあっても終わり良ければ水に流せるということでしょう。主イエスが最後に祝福なさったのもこれと同じでしょうか。主イエスは、最後に本当に祝福出来るようにと、天におられた神の御子であられるのに地上に降りて来られ、何も悪いことをしておられないのに罪人の一人に数えられ十字架にまでかかられた。本当に終わり良ければ全て良しとなるために、そのご生涯を献げられました。私たちは贖罪の御業があったことを忘れてはなりません。

民数記の祭司アロンの祝福。礼拝の終わりの祝祷に於いてこのアロンの祝福の言葉を用いる牧師も多くおります。民数記六章二四~二六節の言葉です。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。主イエスが両手を上げながら弟子たちを祝福なさった時、どのようなお言葉で祝福なさったか福音書は記していませんが、このアロンの祝福の言葉をお語りになったかもしれません。

祝福して下さるとはどういうことか、その内容、意味することについて、アロンの祝祷は教えてくれています。二四節、主があなたを祝福し、それはあなたを守られるということです。祝福下さるとは、二五節、主が御顔を向けてあなたを照らして下さるということです。そしてあなたに恵みを与えられるようになります。同じく、主が御顔をあなたに向けて下さるとは、二六節、あなたに平安を賜るということです。
このアロンの祝福の言葉が教えてくれる祝福の内容は、主が御顔を向けて下さること。旧約聖書では、私たち人間が神様の御顔を直接見てしまったら死んでしまうと言われています(出エジプト記三三・二〇)。それ程に神様は聖なるお方であり、私たちは汚れた罪人であるということです。主イエスは弟子たちに御顔を向けて下さいました。以前、主イエスを裏切って逃げ去った弟子たち、十字架を見上げることのなかった弟子たち、復活の知らせを耳にしても信じようとしなかった弟子たちです…。それでも弟子たちが死なないで済むのは、主イエスが人となられたことによって神としての直接のお姿を隠されたからとも言えます。あるいは、十字架があるからこそ、御顔を見てしまっても死んでしまうことはないとも言えます。
もっともこれも私たちが御顔を見るのではない。主が御顔を向けて下さった。有り難いことです。と言いますのは、主が私たちに御顔を向けることなく、横を向いて私たちのことを忘れてしまわれたら、途方に暮れてしまうでしょう。でも主が祝福して御顔を向けて下さる。そしてあなたを照らしとあります。ご自身の輝きを以て私たちを照らして下さっている。暗闇ではない。主の輝きの中に照らされている。そして恵みと平安を賜り与えて下さる。不安ではありません。平安の中にです。呪いの中にではありません。祝福の中にです。

以上がアロンの祝福の言葉ですが、続く二七節には、祝福と並んで記されていることがあります。
彼らが私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。祝福を受けるとは神様の名を私たちの上に置いて戴けるということだというのです。面白い言い方です。主イエスの名前が私たちの上に置かれる。だから私たちはキリスト者です。丁度、名札を付ける様にです。普通、名札は自分の名前を記す。でもイエス・キリストという名前の記してある名札です。それを自分の胸につける…。とんでもない、そんなこと恐れ多くて出来ません、ということになりますか。でもこう考えたら、理解出来るでしょう。この名札を付けている者はイエス・キリストのものであると。自分の持ち物に名前を書いて自分の所有物であることを明らかにするように、自分の名前でなく神様の名前が付けられて、神さまのものとして守られる。捨てられることはない、忘れられることもない。大切にされる。これが名前を置くということです。そのようにして私たちは神様のものとされて、守られ、照らされ、恵みと平安を賜るのです。祝福の度ごとに確認します。

祝福下さった主イエスはどうなるのか。ルカ福音書に戻りますと、イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。天に上げられ弟子たちを離れて行きました。出来ることなら、離れることなく地上でお姿がいつまでも見えているといいのになと弟子たちは思わなかったのでしょうか。悲しくなかったのでしょうか。五二節、彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。喜びました。
使徒信条で告白します。三日目に死人の内より甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座し給へり。どこかへ行ってしまわれたのではない。神の右にお就きになられた。そこで神の右の座にただ座っておられるのでもない。地上の私たちを父なる神様の前に執り成して下さっておられる。
関西空港から飛び立ちまして羽田に向かう。この辺りの上を通って金剛山を下に見る。こちらは大阪、あちらは奈良になります。地上では金剛山の向こう側は遮られて見えない。我々の限界です。でも上から見ると両方見える。天にましますお方は、天から両方見ておられる。御顔には隠れることなく全てが見える。見守って下さる。飛行機に乗って下の風景を見るとそう思う。神様は上から私たち一人ひとりを見失うことなくご覧になって見守っていて下さる。御顔から隠れるものはない。神の右の座から主イエスは一人ひとりを覚えていて下さって、父なる神様に執り成して下さる。天に上げられたからこそです。このことを弟子たちは、主イエスの御顔の輝きに包まれながら、その時には言葉に表現出来なかったかもしれませんが、見守られ執り成してもらえるのだと直観出来た。だから大喜びでエルサレムに戻れた。

主イエスは弟子たちを祝して下さいました。そして天に挙げられました。そして神の右の座にお着きになられました。右の座で今も執り成していて下さいます。だから、弟子たちのこの時の様子は、悲しみではなかった。喜んだ。祝福されて、主イエスの御顔の輝きに包まれた。御顔の輝きに触れて、あぁ良かったと思ったことでしょう。でもそれだけではない。祝福を喜んだのは、二四章を初めから読み進めて繰り返し味わってきたように、主イエスは彼らに聖書を繰り返し解き明かして下さいました。弟子たちは聖書の御言葉の解き明かしを受けて、この方が、本当に甦って来られた方であり、メシア=キリスト、救い主である、そして自分たちの罪を贖って、罪を赦しておられるのだと受けとめることへと導かれてきていた。だから、祝福された時も、その内実を以て祝福を受けることが出来た訳です。
主イエスが両手を上げて祝福して下さった。そのお姿を弟子たちは目の前で見ることが出来た。私たちは直接それを目にすることが出来ません。でも私たちも、御言葉の解き明かしを受けて、そうなんだ、そうなんだ、そうなんだと信仰の納得をするから、喜べる。弟子たちは喜びの内に礼拝する場としてのエルサレムに帰り、神殿の境内にいて、神であられるイエス・キリストをほめたたえることが出来た。それはみ言葉の解き明かしを受けて私たちにも許されていることです。

聖餐に与ります。その祝福に与ります。通常私たちが想い起こすのは、あの聖餐のパン、キリストが私たちのためにお体を割いて下さった。あの聖餐の杯、キリストは私たちのために血潮を流された、ということです。聖餐式は主の死を告げ知らせるものです。そしてその時自分の罪を想いながら、罪を贖って下さったのだと想いを向けることが多い。でもそれが、何とおいたわしいこと、私のために申し訳ないと頭を下げる。もしそこに留まると喜びはない。私たちは申し訳なさの中に生かされているのではない。そこに留まったら、周囲の人は何と思うでしょう。あの人たち暗いね。それでは証しになりません。そうではなくて、主イエスは甦られた。その主イエスがエマオ近くの宿で、パンを割いて弟子たちに渡された。するとイエスだと分かった。喜びが湧いてきた。聖餐は主の晩餐だけではない。復活の主が執り行われた聖餐式。今日も、聖餐式に於いて復活の主イエスが働いてここに臨在して下さいます。そのとき、主イエスは、祝福を私たちに差し出し、御顔を向けて下さっている。恵みと平安を賜って下さっている。私たちは喜びの内に聖餐に与ります。