日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年1月3日 説教:森田恭一郎牧師

「祈りをささげ、携えて」

詩編 六三・一~九
ヤコブ 五・一三~一六

二〇二一年を迎えました。主の御名をあがめ、天の御国を待ち望み、地上に御心の成ることを求めつつ歩む一年となりますように。

今日の主題は祈りです。祈ってもらうこと、そして互いに祈り合うことです。ヤコブ書は語ります。あなた方の中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌をうたいなさい(ヤコブ五・一三)。苦しい時の神頼み。大いに結構です。苦しい時の神離れ、どうせ祈りは聞かれないと祈らなくなるより遥かに良いですね。ただ、ここに一言加えますと、喜びの時も忘れないで賛美、そして感謝の祈りをささげましょう。

 

それにしても苦しんでいる時に祈る。詩編には苦しい時の祈りがたくさん載っています。幾つかあげますと例えば、苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えて私を解き放たれた(一一八・五)。苦難の襲う時、私は主を求めます。夜、私の手は疲れも知らず差し出され、私の魂は慰めを受け入れません(七七・三)。安易な慰めは役に立たない程に心が傷ついているということでしょう。主よ、私の祈りを聞いて下さい。この叫びがあなたに届きますように。苦難が私を襲う日に、御顔を隠すことなく、御耳を向け、あなたを呼ぶ時、急いで答えて下さい(一〇二・二~三)、そして今日の聖書個所の六三編、神よ、あなたは私の神。私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私の身体は、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています(六三・二)。涸れた谷に水を求める、あの鹿(四二・二)のような、渇き求める魂の姿をこの詩篇も描き出しています。このように、苦しむ時に祈って良いのだ、と語っています。

そして今日のヤコブ書は、更に強く語っているようです。繰り返し命令形で語ります。苦しんでいる人は祈りなさい。賛美の歌をうたいなさい。教会の長老を招きなさい。祈ってもらいなさい。罪を告白し合いなさい。互いのために祈りなさい。

 

その中で今日は特に一四節に焦点を当てます。あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。病の時、自分のために一人で祈るのはもとより、それだけでなく、祈ってもらいなさい。そしてそのために長老を招きなさいと言うのです。皆さんは、病の時、また色々と苦しい時に、長老を招いて祈ってもらったことがありますか。

長老、また牧師も、招かれなくても、その人のために祈るのが当然ではあります。この個所の命令形は、祈ってもらいなさいではなく「長老を招きなさい、長老たちはオリーブ油を塗って祈りなさい」です。だから長老も牧師も招かれて祈らなければなりません。

昨年まで、共に読み語る会で読んでおりました『慰めのコイノーニア』(交わり)、の本の終わりの所で、丁度、ヤコブ書のこの箇所を引用しておりました。それで「慰めを必要とする者は長老に訪問を頼んで良いのです。『来て、祈って下さい!』。教会の祈りを求めます」。そして最後の段落でこう締めくくります。「ドイツの現在の教会の長老制度は当時に比べ遥かに進歩しましたが、この訪ねる長老の姿は失われていませんか。牧師、長老に留まらず、慰めの共同体を造るために主に召されている者たちが力を合わせて『訪ねる共同体』として、キリストの教会を再生させる責任があるのではないでしょうか。そのために知恵を集め、また自分を訓練するという課題と新しく取り組みたいと祈り願います」。

皆さん、長老や牧師を招いて祈ってもらって下さい。私たちはご本人を前に「あなたのために祈ります」と言って祈り出すのは少々気が引ける所がない訳ではありません。「私のために祈って下さい」と言って戴けると遠慮なく祈りやすいです。また、招いて戴くとお訪ねしやすいです。招くことと訪ねる事、どちらが後先ということではありません。どちらも必要です。遠慮なく招くことの出来る「訪ねる共同体」を形造りたいですね。

 

この書物からもう少し引用させて戴きたいと思います。「九日間の祈り」という題の章があり、それはノヴェーネという言葉の訳です。一人の病人のために祈るというオランダの教会にある習慣だそうです。それを知ったドイツのある牧師が自分の教会でも始めました。誰かが病気になると、数人の教会員に祈りの群れを造ってもらい、長老も中に加わります。そして誰かの家に集まり、九日間、病む仲間のために祈り続ける。そして毎日誰かがお見舞いに行く。この習慣を知った日本の教会でも、誰かが病むと、その癒しのために名乗り出た教会員が九日間祈り続け、訪ねたり手紙を書いたりして、慰める群れをその度に作っている。またある教会では、張り紙に病んでいる人の名前があって、その横に祈る人の名前が自由に書き込まれているそうです。

やり方は色々あるでしょう。大事な事は、ある人のことをみんなで覚えて祈る。教会がそういう「執り成しの共同体」になるということです。

 

このような執り成しの共同体が必要なのは何故でしょうか。それは、私たちが祈れなくなることがあるからです。苦しい時の神離れがありますし、病気で体が痛くて痛くて祈れないこともある。また「自分が犯した間違いや罪の故に被っている苦しみだと祈る資格はない」と思えてしまう時や、どう祈って良いか分からなくなる時もある。だから教会に祈ってもらう。

なぜ九日間なのか。九日間祈れば、その間に神様は聞いて下さるだろうからという素朴な信頼があるからということです。もっとも正確な理由はよく分からないそうですが、実際にやってみると、期待通りであったかどうかはともかく、どの教会も恵みの経験になったそうです。

もちろん私たちの祈りは、貧しく心もとない祈りです。が、教会が執り成しの祈りのことを語り、祈ることが出来る根拠があります。それは、主イエスが祈って下さるからです。主イエスはペトロのために祈りました。「しかし私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三二)。思えば、主イエスが十字架でご自身をお献げ下さり、私たちの弱さ、罪を贖って下さり、ペトロをはじめとする私たちに対するご自身の執り成しが確かなものになり、こう語って下さいました。聖霊も祈ってくれます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、〝霊〟自らが言葉に表せない呻きを以て執り成して下さる(ローマ八・二六)と。それで私たちも祈れます。

 

長老会では今、皆さんから教会の働きのアンケートをお願いして、四月からの教会の営みに備えようとしています。多くの皆さんから「この働きを担わせてもらいます」と〇印をつけて回答下さいましたこと、有難く思っております。これまでの様々な働きを書き出し、四月以降の皆さんの参加をお願いした訳です。それと併せて、長老会と長老の働きについても検討しています。長老会の務めの二本柱は礼拝と牧会を整えることです。

宣教長老、治会長老という言い方があります。宣教長老というのは牧師のことで、御言を解き明かし宣べ伝える務めを担います。治会長老はいわゆる長老の方たちのことで、治会は会を治めると書きます。

治会というのは、教会で営まれる皆さんの働きを把握し整え、ご奉仕下さる皆さんを覚えて祈ることです。皆さんの働きの内、最も大切な奉仕は礼拝をささげる事です。それから諸集会に集う事、そして個々のいわゆる奉仕の働きがあります。

もう身体が弱くなって具体的な奉仕の働きは出来ない、礼拝も出席も難しくなって来た、そう思われる方も、祈りを以てささげるご奉仕をお願いしたいと思います。病や課題を負っている人たちのために。そして併せて、牧師が宣教長老の務めを果たして、福音を解き明かすことが出来るように。長老が治会長老の務めを果たして、教会で営まれる皆さんの働きを把握し整え、ご奉仕下さる皆さんを覚えて祈ることが出来るようにお祈り下さい。そうやってみんなが、教会に集うお互いのために、また教会員と長老会のお互いのために、祈り合う私たちとさせて戴きましょう。また関係団体や地域や社会のためにも祈ります。

 

教会も日本社会も高齢化を迎えています。共に覚えて祈り支え合う働きは益々、大切な働きになるでしょう。昨年は相互牧会について少しずつ学んでまいりました。感染症で教会修養会も一年延期になりましたが、相応しい講師をお招きして、今年も相互牧会を念頭にこの思いを育みたいと願っています。「兄弟たちを力づけてやりなさい」と主イエスが私たちを支えて下さいます。私たちの教会が「慰めのコイノーニア」、「執り成しの共同体」、あるいは、「訪ねる共同体」へと育まれていくように主イエスが導いて下さると信じます。